2012年1月1日 日本フリーメソジスト東住吉キリスト教会 主日元旦礼拝式 説教概要
聖書: ルカによる福音書 第10章 38〜42節
題: 「無くてならぬもの」

T.はじめに

 どのような思いで新年をお迎えになられたでしょうか。昨年末には、12月19日に北朝鮮の金正日(キム ジョンイル)総書記が召され、翌日の12月20日には近所のスーパー鈴屋が倒産し、驚きました。思いがけない変化が次々と起こる「今」という時代に、あらゆる変化に備えようとすると、様々なことが気にかかり、何から手をつけたらよいかと、不安になりがちではないでしょうか。毎日の生活の優先順位を意識しないと、情報や状況の変化に振り回されてしまう「今」、一日一日をていねいに生きるには何が必要でしょうか?

U.みことば

1.姉と妹、家族ゆえの不満(ルカによる福音書 第10章 38〜40節)

 先ほど私たちは、西暦60年前後に書かれた「ルカによる福音書」という文書が記す出来事を共に聴きました。登場人物は、「一同」(10:38)と言われているイエスと12人の弟子たち、そしてマルタとマリヤという二人の姉妹です。「マルタという女がイエスを家に迎え入れた」(10:38)。何日か前に連絡があったのかどうかわかりませんが、イエスと一緒に弟子たちも家に迎えたのでしょう。男性ばかりのお客を13人、家に迎えるとしたら、もてなす側はもう大変ではないでしょうか。「牛がいいかしら、それとも鶏かしら」(ユダヤ人は豚肉は食べません)とメニューを決めるのも大変でしょうし、「もし好き嫌いがあったり、もし飲むものが足りなかったら」と「もし」を考えて準備するなら、キリがありません。
 おそらくお客を迎える時までは、姉と妹は一緒に接待の準備をしたと思います。しかし、いよいよイエスが到着すると、二人はとても対照的です。「この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言(みことば)に聞き入っていた」(10:39)。それとは対照的に、姉の方は「接待のことで忙しくて心をとりみだし」(10:40)て、ついにはお客であるイエスにこう言います。「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」(10:40)。「妹がわたしだけに」と家族への不満をイエス様にぶつけられるほど、本音を言える親しい間柄だと言えますし、私たちもお祈りで自分の不満や心の痛みをイエス様に訴えてよいのですが、彼女は「どうしてあなたはこうしてくれないのか」と皮肉めいた言い方です。「私はこうしてほしい」と素直に、あるいは自分で妹に「ちょっと手伝って」と言えたはずなのに、そうしなかったのはなぜでしょうか。それほど姉は限界寸前だったのかもしれません。
 今の私たちにとって、この姉と妹の姿は、どんな意味があるでしょうか。最近、福山雅治の「家族になろうよ」という歌がラジオで流れているのを何度か聴きました。その歌詞の中に「どれほど深く信じあっても わからないこともあるでしょう その孤独と寄り添い生きることが 愛するということかもしれないから」というフレーズがあります。親しい友人や家族だからこそ、絆を実感できれば嬉しいですが、わかってもらえないと不満が生じ、かえって孤独を感じることもあるのではないでしょうか。

2.どうしても必要なこと(ルカによる福音書 第10章 41〜42節)

 この姉のマルタの言葉に、イエスはどうお答えになったでしょうか?10:41〜42を何回か読んで気がつくことは、イエス様はマルタを責めてはいないということです。むしろ、「マルタよ、マルタよ」と名前を2回も呼んで、彼女の忙しさやイライラを理解し、自分が今どのような状態か、彼女自身に気がつかせようとしています。私たちも今、「多くのことに心を配って思いわずらっている」のではないでしょうか。イエス様は、そのような私たちをわかってくださり、自分でも自分がどれほど疲れ、がんばりすぎてしまっているかに気づかせ、自分が今どのような状態なのかを、私たちに気づかせてくださいます。
 このエピソードの中で、言葉を発しているのは、マルタとイエスです。マリヤが何も話していないのが印象的です。イエス様は、妹のマリヤが選んだ接待のあり方、奉仕の姿を指し示して、姉のマルタの混乱と思い煩いの原因を示しています。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」(10:42)。「無くてならぬもの」が自分にとってはいったい何なのか、私たちはお互いになかなか気づかないのではないでしょうか。しかし、昨年の東日本大震災や台風12号による被害の状況を見聞きして、私たちは改めてどうしても必要なものを、考えさせられているように感じます。今の自分に、どうしても必要なことは何か。マルタは、まず自分の経験と知識から最善と思うことを選び、マリヤは、自分の考えよりもまずイエス様に聴くことを選びました。どちらも、それぞれの選択です。
 今の自分に、今年の自分に、どうしても必要なことは何でしょうか。私たちのことを誰よりも知っておられるイエス様によれば、それは妹のマリヤが選んだこと、つまり、まず、イエス様が語ることばに聴くことです。考えてみれば、お客はイエス様なのですから、まずイエス様が望むことを聴くことが、最善の接待であり、最善の奉仕ではないでしょうか。まず、イエス様の語る言葉に聴くことが最善の奉仕です。それは今の私たちにとっては、具体的には神様の言葉である『聖書』を読み、その語ることに耳を傾けることです。読んでわからないことや矛盾に思う所もたくさんあるでしょう。が、謙虚になって『聖書』が語ることを、自分ひとりで、あるいは誰かと一緒に聴くことが、私たちの生活に「無くてならぬもの」です。そのためには、「まず神様の言葉を聴こう」と素直に思える自分へと新しく生まれる経験がどうしても必要なことであり、神様の子どもとして新しく生まれた人は自分を生かし養う食物である「神様の言葉」への飢え渇きを感じるのです。

V.むすび

 何を優先しても不安や焦りを感じるような、情報や選択肢の多い現代の私たちの生活で、イエス様が「無くてならぬもの」と言われた神様のことばに聴き、導かれる確かな人生、永遠が保証された生活を、今年、お始めになりませんか。そのためには、まず、日頃、自分を生かしお世話になっている神様への礼儀を欠いてきた私たちのために十字架で死なれたイエス様を信じ、神様の言葉を重んじて聴く自分へと新しく生まれさせていただきましょう。あなたがすでにイエス様を信じて神様の子どもとされているならば、神様の言葉を食物として養われ、イエス様の問いかけや約束、導きなど、自分に関わってくださるイエス様と一緒の生活が永遠に保証されています。今年は1日に5分でも神様に聴き、1年に1度は、1ヶ月に1度は、週に1度は、自宅の近くの教会の礼拝で、あるいはこの教会の礼拝で、神様の家族と共に神様の言葉に養われる年とされましょう。(記:牧師 小暮智久)