参考資料一覧・2

従軍慰安婦関連


強制連行の様子

「フィリピンでは、多くの元慰安婦が名乗り出ているが、その証言により浮かび上がるのは、軍による暴力的な連行が非常に多かったことである。(中略)筆者がヒアリングを行うことができた典型的なケースを見ると、次のようだった(中略)。
 マリア・ロサ・ヘンソンは、父がルソン島アンヘレスの大地主、母がそのメイドであった。日本軍侵入後の一九四二年、疎開していた村で、薪を集めていたとき、日本兵に強姦された。当時一四歳だった。翌年、アンヘレス市で、抗日ゲリラのメンバーといっしょに、水牛のひく荷車に乗って日本軍の検問所を通過しようとして呼びとめられ、彼女だけが連行された。日本軍が宿舎にしていた病院に監禁され、次に精米所であった建物に移されて、日本兵の相手をさせられたという。週一回程度、性病検査があったと言うから、やはり軍慰安所のひとつと考えていいだろう。
 ロシータ・バカルド・ナシーノは、パナイ島イロイロ州で生まれたが、日本軍占領中の四二年に母が死亡し、翌年父が餓死した。彼女はイロイロ州のキャンディー工場で働いていたが、四四年に工員をやめて祖母のいるエスタンシアに帰る途中、祖母の家の近くで日本兵に拉致された。家から二〇分くらいのところに日本軍の兵営があった。彼女は、エスタンシアの旧製氷工場に連れていかれ、将校と下士官・兵につぎつぎに強姦されたという。彼女はこの工場に約一カ月監禁されていたが、中には一五名の女性がいたようである。」
「従軍慰安婦」(吉見義明 岩波新書)より

元日本軍「慰安婦」スハナさん(インドネシア出身)の証言
「 一九四三年、私は一六歳でした。私が家の道端にいた時、突然「ダイニッポン」(日本軍)のジープがやってきました。ジープには軍人が六人ぐらい乗っていたと思います。その男たちは私に「一緒に来るか?」と訪ねました。私は「いやだ」と答えました。すると彼らは私に「ジープに乗れ」と命令しました。私が再び「いやだ」と拒否しますと、頬をぶたれました。私の両親は市場で店を出していたので、「それなら、お父さんとお母さんに行くと言わなければ」と私は言いました。しかしもちろん両親に会いに行くことを許してはもらえませんでした。彼らは私の長かった髪を、まるで馬のたてがみを引っ張るようにして私を引きずりました。私が必死に抵抗したので、結局彼らは私を抱え上げてジープのなかへ押し込みました。
 そのあと私は、もともとオランダ軍の将校用住宅だったグドゥン・ドゥラパンという建物へ連れて行かれました。日本兵は私に「働け」と命令しました。私は「いやだ、学校に行きたい。私の両親も私がここへ連れてこられたことを知らないから、絶対に働くのはいやだ」と言いました。
 しかし、その建物に入れられた後、別の部屋に連れて行かれました。そこには若い女性がたくさん、三十人くらい入れられていて驚きました。私は「家に帰りたい」と泣き続けていたら軍人に殴られました。すると、女性たちの一人がそばに来て、「泣くのはやめなさい。私たちはどうせ「囚われの身」なのだから」と私に言いました。
 一晩その部屋で過ごした翌日、私は中国人に別の部屋に連れて行かれました。その部屋に入れられると、まもなくして「ダイニッポン」の男がやってきて、そこで私はむりやり犯されました。抵抗しようとすると平手打ちされました。
 その日本軍の男は、私に服を脱ぐように命令しました。私はいやだったので抵抗したところ、私が腰に巻いている布をむりやり剥ぎ取り、下着も剥ぎ取りました。その「イケダ」という日本の軍人に私は犯されました。私はそのとき処女でした。私は本当に死んだような気がしました。
 そうやってその男に犯された後、私はまたもとのたくさん女の人がいる部屋に戻されました。部屋の中で私は泣きました。周りにいた人たちは同情してくれました。私が彼女たちの中では一番若かったからです。「これ以上泣いているとまた殴られるよ」となぐさめてくれました。その日から毎日毎日、イケダに限らず他の日本軍の男たちに犯され続け、とても時が長く感じられました。
 そして金曜日がやってきました。私は「タナカ」という医師に検査されました(性病の検査と思われる)。検査が終わると、また中国人にタナカ医師の家に連れて行かれました。そこでなんと、タナカ医師も私をレイプしたのです。そのときタナカ医師は、コンドームを使用しました。そのあと私はまたもとの部屋に帰されました。
(中略)
 軍人たちの相手をさせられる部屋は、私たち一人に一部屋ではなく、一部屋に三人入れられました。それなのに軍人たちは他の人がそういうことをやっていたり、あるいは他の人に見られているということも全然おかまいなしです。ですから、他の女性たちが同じ様な目に遭っている中にいて、私は周りをとても見ることができず、いつも目を覆っていました。そんな私を見て日本軍の男は「こんなこと恥ずかしがる必要はない」と言いました。
 また、拒否すると足蹴にされたり、頬を殴られたりしました。私は拒否をしたためにずいぶん殴られました。殴られるのが恐ろしかったので、私は仕方なく犯されざるをえませんでした。いろんな軍人が次々に指名してくるので体を休める暇もなく、終わったかと思うとまた次の軍人が来るという状況でした。」

(koβ註:スハナさんは犯され続けたためか、後に病気になり、一年半後、そのまま慰安所と共に放棄される形で日本軍から解放された。が、スハナさんの父親は日本軍により殺されており、母親も夫と娘を失ったショックから病気になり亡くなっていた。)

「インドネシア侵略と独立」(戦争犠牲者を心に刻む会・編 東方出版)より

日本軍の強姦について

「戦場に於ける特殊現象と其対策  
国府台陸軍病院附 陸軍軍医中尉 金沢医科大学教授 早尾乕雄
 一九三九年六月」

(koβ註:これは、日中戦争に応召された軍医、早尾軍医中尉が陸軍法務部に提出した、日中戦争中の兵隊の心理、精神についての報告論文である。以下はそのうち、強姦について述べられた部分である(旧仮名遣いは改めてある。また、適宜句読点を施す。()はkoβによって補ったところである)。

「 出征者に対して性欲を長く抑制せしめることは、自然に支那婦人に対して暴行することとなろうと、兵站は気をきかせ中支にも早速に慰安所を開設した。その主要なる目的は性の満足により将兵の気分を和らげ、皇軍の威厳を傷つける強姦を防ぐのにあった。
 慰安所の急設は確かにその目的の一部は達せられた。然しあの多数の将兵に対して慰安所の女の数は問題にならぬ。上海や南京などには慰安所以外にその道はあけてあるから、慰安所の不足した地方へ、あるいは前線へと送り出されるのであったが、それでも地方的には強姦の数は相当にあり、亦前線にも是を多く見る。是は尚、女の供給の不足してることに因るは勿論のことだが、やはり留学生が西洋女に興味を持つと同様で、支那女と言うところに好奇心が沸くと共に、内地では到底許されぬことが、敵の女だから自由になるという考えが非常に働いているために、支那娘を見たら憑かれたようにひきつけられて行く。従って検挙された者こそ不幸なんで、(強姦事件は)陰にはどれ程あるか解らぬと思う。
 憲兵の活躍のなかったころで而も支那兵により荒らされず、殆ど日本兵の通過にまかせた市町村あたりは支那人も逃げずに多く居たから、相当に(強姦の)被害があったという。この部隊長は兵の元気をつくるに却って必要とし、見て見ぬ振りに過ごしたのさえあったほどである。

 西洋人の前に(で)日本の軍人は非常に礼節を重んずるから、支那婦人を冒すなんて事は断じてないと、予め吹聴したものだった。然るに事実は是に相違したので、支那良民の日本兵を怖るること甚だしく、若い女は(強姦されるのを怖れて)悉く隠されて影もない様になったと言われる。
 然るに一方南京の避難民区からは糊口の道を得たるために、昔の夜鷹の如くに若き支那婦人が枕になるもの下敷きになるものだけを携えて、昼夜兵の宿舎にあらわるる様になったので、風儀の乱されたこともあった。こうなると憲兵の方も強姦か和姦かの区別を考えねばならなくなり、若し、其の場所に敷物代用品があったり、支那婦人が日本貨を持っていた事実が認められたら、和姦として取り扱って見る様になり、(検挙される)強姦の数は実際よりは少なくなったという。敵国人という感(情)の働くために、無償にて(性交を)行い、(代価を)要求されたときに是を追い払ったりする為に、(南京?)自治委員会からの告訴に会って恥を掻く例も少なくないのである。
 勝利者なるが故に金銀財宝の略奪はいうに及ばず、敵国婦女子の身体まで汚すとは、誠に文明人のなすべき行為とは考えられない。東洋の礼節の国を誇る国民として慚愧に耐えぬ事である。昔和倭(倭寇?)は上海に上陸し、南京に至る迄、このような暴挙に出た為に非常な野蛮人として卑しめられ嫌われたというが、今に於いても尚同じことが繰り返るるとは、なんとした恥辱であろう。憲兵の活躍は是を一掃せんとし、皇軍の名誉回復に努力しつつあることは感謝にたえぬ。

次に強姦事件の実例を列挙する。

  1. 或る兵は兵站病院を退院、原隊へ復帰の途次、飲酒酩酊の上、所属隊宿舎の付近の支那家屋へ侵入し、同家二階に居合わせた支那婦女(当時二十一歳)を強姦した。

  2. 二人(A・B)の兵は他の一人(C)を誘いて外出した。Aは支那婦人(当二十年)を見ると劣情を起し、強姦を志し、Cをして同女を附近の空家へ連れ行かしめ、Cをして所携の小銃を一発発射せしめ、更に(小銃に銃剣を?)着剣の上、剣先を同女に突付けて脅迫せしめ、同女が恐怖するを見ると附近の民家内へ引き入れ強姦した。BはAの目的を達したのを知るとAの立ち出た後へ入り込んで同女を強姦した。

  3. 或る兵は或る支那民家へ立ち寄ると、同家の娘(当十六年)が兵を見て怖れ逃げ去ろうとすると、是を捕えて強姦したばかりでなく、翌日も到って再び強姦した。

  4. 或る兵は飲酒酩酊の上、無断外出をし、支那婦人某(当四十九年)方へ侵入し、所携の軍刀を引き抜いて、脅迫した上、強姦した。

  5. 或る兵は加給の酒に酔い、戦友と共に外出し、支那婦人某(当四十二年)を認め、是を姦淫せんと思い、同家内に侵入して同女に性交を要求した。同女は日本兵を怖れて抵抗の出来ないのに乗じて姦淫した。

  6. 或る兵は支那酒に酔いつつ、支那店に立ち寄り、焼き鳥を食する時、傍らに居た支那少女(当六年)を見ると、同女が十三歳未満の少女であることを認識しながら姦淫せんと思い、同女を抱きながら室内へ入り、同女の父に銃剣を突き付けて退去を命じ置き、同女を姦淫せんとせしも、少女の為目的を達しかね、指頭を以て(性器を)押し開かんとして負傷せしめた。

  7. 或る兵は武装(の上)、街頭に出て支那民家の表戸を蹴外し、家内へ侵入し、隠れていた支那女(当十六年)を発見し、同女に銃口を差向け脅迫の上、強姦した。次に同女を宿舎へ連れ行き、「帰宅すれば殺すぞ」と脅迫して不法監禁した。其の間、無抵抗なのに乗じて姦淫した。其の翌々日、同女の宅へ侵入し怖れ、隠れ居るを発見し強姦した。

  8. 或る兵は戦友二人と支那酒や「ビール」を飲んだ上、支那婦人を捜し求めた上、輪姦した。

  9. 或る兵は(が証言するには)、歯科治療に行った帰途に「ビール」を飲み、酔いに乗じ支那家屋へ「ノック」して入った。男が茶を出してくれた。外に話し声がするので着剣で警戒に出ようとする時にすべった。其の折りに支那女に触れたかもしれぬと話したが、是は偽りで強姦未遂であった(女の匂いがするのを咎められて言い訳をしたのかもしれない)
  10. 或る兵は街上の支那家屋へ入ると母親と娘とが居た。娘へ(性交を)要求をすると、承知した母親は是を見て出ていったので其の娘を姦淫せんとしたが発育しておらなく出来なかった。(娘は十歳位)。其のまま帰った。娘へ隊へ来れば残飯をやるからと隊名を書き置いたことから憲兵に捕らえられた。

 以上の述べた様な例は尚沢山に挙げることができる。強姦をやっても容易に発覚しないだろうと考えることは大変な誤りで、こんなに知れやすい事柄はないのであると、法務部当局は兵達を戒めて居ったが、全く其の通りである。
 日本の軍人は何故に此の様に、性欲の上に理性が保てないかと、私は大陸上陸と共に、直ちに痛嘆し、戦場生活一ヶ年を通じて終始痛感した。然し、軍当局は敢えて是を不思議とせず、更に此の方面に対する訓戒は耳にしたことがない。而も軍経営の慰安所を盛んに設けて軍人の為に賤業婦を提供した。そして娼婦から性病を軍人間に蔓延せしめた。そして遂に其れのみを収容する兵站病院を作る必要を生じた。尚性病のある間は(内地への)帰還を停止した。兵にのみかく厳にしながら、将校間に却って性病が多かった。若い将校どころか上長官の間にも患者はあり、軍医に秘密治療を受けて居る。性病を支那人から得ぬ様に慰安所を設け内地、内戦人を娼妓として使用しながら、皮肉にも彼女らが性病を広げた。然し強姦は甚だ旺んに行われて、支那良民は日本軍人を見れば必ず是を怖れた
 将校は率先して慰安所へ行き、兵にも是をすすめ、慰安所は公用と定められた。心ある兵は慰安所の内容を知って、軍当局を冷笑して居った位である。然るに慰安所へ行けぬ位の兵は気違いだと罵った将校もあった。
 要之戦場生活は殺風景だから気が荒くなる、是を抑える為には兵に女を抱かせるより善い策はないとしたのは尤もである。
 然し、日本軍人が戦争に来て大きな顔をして慰安所へ暇さえあれば通う姿を見て、支那人は笑って居った。(応召によって大陸に派遣され)上海へ上陸した其の日に、何処へ行ったら女が買えるかと在留日本人に聞くと言うので、日本の兵隊さんは戦争に来たのじゃあないのかと反問しているのを聞いた。
 上海でも南京でも日本服姿の婦人を見ると、ゲラゲラ笑って恥しさも知らずに揶揄する。それが家庭婦人たると売笑婦たるとの区別がない。慰問に来た女学生や婦人に向かっても平気で不作法な動作をしたり言葉で話しかける。どうして軍人は此の様に性欲にかつえており、亦其の抑制がないかと思われる。海軍軍人は決して此の様な風を見せないのは、海軍軍人の平常の教育が宜しいためと考えられる。
 此の様に陸軍軍人は性欲の奴隷の如くに戦場を荒らしているのであるから、強姦の頻発も亦止むを得ぬ事と思われた。」

「従軍慰安婦資料集」(吉見義明・編集解説 大月書店)より


軍の関与

「昭和十三年七月五日附上海総領事発信在南京総領事宛通報要旨」

「陸海軍に専属する酒保及慰安所は、陸海軍の直接経営監督取締に属すべきも、一般に利用せらるる所謂酒保及慰安所は、業者に対する一般の取締を領事館に於て為し、之に出入り軍人軍属の取締は憲兵隊に於て為す。尚、憲兵隊は必要の場合、随時監検其他の取締措置に出ずることあり。要するに軍憲領事館は協力して軍及居留民の保健衛生と業者の健全なる発達を企図し居る次第なり。」

「漢口陸軍天谷部隊慰安所婦女渡支の件」
野村外務大臣と花輪漢口総領事との往復電
 1939年12月23日

野村大臣より花輪総領事への発電
    「在漢口香川県天谷部隊に於ては軍慰安所開設のため、婦女五十名を募集し居る趣を以て、右引率渡支許可方同県庁に願出たる者あり。同県関係軍側よりも之が斡旋方申入ありたるに付、事情やむを得ずと認め、内諾を与え置たる旨、内務省より通報したる処、右は貴館と諒解済なりや。一行は年内に出発すべき手筈なる趣に付、貴見折返し回電ありたし。」

花輪総領事より野村大臣への返電
    「当地軍令部に連絡したる処、慰安婦の内地よりの招致は許可制を取り居り、今回天谷部隊の慰安婦招致に関しては、軍に対し正式に手続きを踏み居らざるも、既に同部隊に於て招致手筈を為したる事実に鑑み、之を追認する趣なるに付、右に御了知相成度く、尚本件に関しては事前に当館に何等連絡無く、尚軍意向としては招致慰安婦の稼業については、当館監督下に於て就業せしめられ度き旨き申出ありたるに依り、来漢の上は当館に出頭方引率者へ伝達方御取計相煩度し」

(koβ註:慰安婦の渡航に関し、異例ながら部隊レベルで渡航のための手続きを行っている。小林が言うような、「慰安所は勝手に軍隊についてきていた」などという主張は誤りという事である。)

「軍慰安所従業婦等募集に関する件」
陸軍省兵務局兵務課起案
1938年3月4日

「支那事変地に於ける慰安所設置の為、内地に於て之が従業婦等を募集するに当たり、故らに軍部了解等の名義を利用し、為に軍の威信を傷つけ、且つ一般民の誤解を招く虞あるもの、或いは従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し、社会問題を惹起する虞あるもの、或は募集に任ずる者の人選適切を欠き、為に募集の方法、誘拐に類し、警察当局に検挙取調を受くるものある等、注意を要する者少なからざるに、就いては将来是等の募集等に当りては派遣軍に於て統制し、是に任ずる人物の選定を周到適切にし、其実施に当りては関係地方の憲兵及警察当局との連繋を密にし、以て軍の威信保持上並に社会問題上遺漏なき様、配慮相成度依命通牒す。」

(koβ註:小林はこの資料を、軍が強制連行をさせないようにしていた証拠などと言っているが、この資料の眼目は、慰安婦募集は軍の統制下におくようにしたという事であって、慰安所が軍の指導の下、憲兵・警察の協力の下、運営されていたことを示しているという事である。それは小林がいう、民間業者が勝手についてきていたなどという主張が誤りであるということを示している。)

「戦時旬報(後方関係)」
第二一軍司令部
1939年4月11日〜12日

「二 慰安所の状況
  1. 慰安所は所管警備隊長及憲兵隊監督の下に、警備地区内将校以下の為開業せしめあり

  2. 近来各種慰安設備(食堂、カフェー、料理屋其他)の増加と共に、軍慰安所は逐次衰微の徴あり。

  3. 現在従業婦女の数は概ね千名内外にして、軍に於て統制せるもの約八五〇名、各部隊郷土より呼び寄せたるもの約一五〇名と推定す。
    右の他、第一線に於て慰安所の設置困難なるものにして、現地のものを使用せるもの若干あり。
(後略)」

「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒」
北支那方面軍参謀長 岡部直三郎
1938年6月27日

「(略)
二、(koβ註:占領地域の)治安回復の進捗遅々たる主な原因は、後方安定に任ずる兵力の不足に在ること勿論なるも、一面、軍人及軍隊の住民に対する不法行為が住民の怨嗟を買い、反抗意識を煽り、共産抗日系分子の民衆煽動の口実となり、治安工作に重大なる悪影響を及ぼすこと尠しとせず。

三、由来、山東、河南、河北南部等に在る紅槍会、大刀会及之に類する自衛団体は、古来軍隊の略奪強姦行為に対する反抗熾烈なるが、特に強姦に対しては各地の住民一斉に立ち、死を以って報復するを常としあり(昭和十二年十月六日方面軍より配布せる紅槍会の習性に就て参照)。従って各地に頻発する強姦は、単なる刑法上の罪悪に留まらず、治安を害し、軍全般の作戦行動を阻害し、累を国家に及ぼす重大反逆行為と謂うべく、部下統率の責にある者は国軍国家の為、泣て馬謖を斬り、他人をして改心せしめ、再び斯る行為の発生を絶滅するを要す。若し之を不問に附する指揮官あらば、是不忠の臣と謂わざるべからず。

四、右の如く、軍人個人の行為を厳重取締ると共に、一面、成るべく速に性的慰安の設備を整え、設備の無きため不本意乍ら禁を侵す者無からしむるを緊要とす

(後略)」

上記、いずれも「従軍慰安婦資料集」(吉見義明・編集解説 大月書店)より(旧仮名遣いは改めてある。また、適宜句読点を施す)。

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