産経新聞社の来歴

 「新しい歴史教科書」の発行などで、よしりんもお世話になっている扶桑社は言わずと知れたフジサンケイグループ。産経新聞社はその中核的メディア企業である。

 産経新聞社といえば、天下の大新聞社だ。独自の編集姿勢は一部に高い評価を得ており、他の追随を許さないものがある。ただし、最近は世界一、1000万部の発行部数を誇る読売新聞が追随を始め、読売社長と自民党長老が仲良しという事もあって、産経も危うく成りつつあるのだが、800万部を発行してる朝日、400万部の毎日、300万部の日経などと違い、やっぱり産経ならではの存在意義は、200万部程度の購読者には認められているようだ(発行部数はいずれも朝刊で、日本ABC協会調べ。ちなみにブロック紙の中日新聞は240万部、東京スポーツは140万部)。

 もちろん、私は全く認めてませんし、評価も低いのですが。

 中国の兵法家、孫子曰く「彼を知り、己を知れば、百戦して殆うからず」。己を知るため、彼を知るためには、その来歴を知るのが一番です。以下は、元産経OB高山尚武氏が書いた、「ドキュメント産経新聞私史」を元にまとめた、産経新聞社の来歴であります。文中、敬称略ということで。

前田久吉社長時代

1913大阪にて前田久吉が新聞販売店を創業
1922南大阪新聞創刊(後の大阪新聞)
1933日本工業新聞創刊
1941.6戦時新聞統制令により愛知以西の産業経済新聞関係33社を吸収合併する。
1942株式会社産業経済新聞社に改名、日本工業新聞停刊
1948赤字続きの世界日報社(東京)を傘下に。
1950東京での印刷開始
1950.7朝鮮戦争に伴う「レッド・パージ」始まる
1950.10前田の公職追放解除
1951世界日報社を合併。全国紙化への道を歩み始める。
1955.3破格で払い下げられた東京・大手町の国有地に東京本社ビル及び産経ホールを完成。
1958全国紙化に伴う多額の投資より、借入金がかさみ(34億8千万:手形13億4千万)、住友銀行堀田庄三頭取に財界からの支援を要請。
このころ、堀田庄三は池田勇人大蔵大臣を支援する、「二黒会」のメンバーであり、そのメンバーには、桜田武(日清紡社長)、永野重雄(富士製鉄社長)、水野成夫(国策パルプ社長、フジテレビ社長)らがいた。彼らは財界の半公然組織、「マスコミ対策委員会」の中心メンバーだった。

水野成夫社長時代

1958.10水野成夫社長就任、前田久吉は会長へ。財界の後押しもあり、資本金を五億増資し、九億九千万に。水野には財界より十五億の資金援助があったと言われる。当時の取締役には五島昇(東急社長)、小坂徳三郎(信越化学社長)らがおり、監査役として後に産経の社長となった鹿内信隆(日本放送専務)がいた。
1959.2東西産経新聞社合併−>株式会社産業経済新聞社へ
水野成夫
戦前は日本共産党中央委員。投獄され、転向したのち、軍部に取り入り、軍用製紙工場の払い下げなどの手厚い援助を受け、国策パルプを設立。国策パルプでは労働組合の弾圧で悪名を馳せる。
文化放送社長として、娯楽番組中心の編成、良心的ドラマ番組、探訪番組の打ち切り、保守財界人の宣伝、政府批判番組の禁止、反対者の配転、組合潰しなどをすすめ、「財界のマスコミ対策のチャンピオン」と称せられる。
水野登場の背景
戦争翼賛に対する反省から、毎日、朝日、読売などの大手全国紙が権力に対する追及も辞さない姿勢を示すなかで、財界による「はっきりした保守新聞」の要望があった。
フジテレビと文化放送の社長だった水野が全国紙となった産経新聞を手中に収めることにより、テレビ、ラジオ、新聞が連携した、巨大メディアを財界の御用メディアにすることが出来たのである。
1953年10月の池田特使・ロバートソン米国務次官補会談
「本会議参加者は,日本国民が自己の防衛に関しより多くの責任を感ずるような気分を国内につくることが最も重要であると意見一致した。愛国心と自己防衛の自発的精神が日本において成長する如き気分を啓蒙と啓発によつて発展することが日本政府の責任である。」
後に首相となった池田は国会の施政方針演説で次のように述べた。
「新聞、ラジオ、テレビ等は、家庭、学校、社会の三つを通じ、人つくりの環境を整える最も強力な手段となりつつあります。最近におけるテレビの普及は、このことを決定的にしたものといっても過言ではありません。私は、これら言論機関の責任者が社会教育の先達者であるとの誇りと責任を持って、人つくりに一そうの力を尽くされるよう期待するものであります。」(1963.1.23)
1960.10広島版に「郷土部隊奮戦記」掲載。各地方版に波及し、戦記物ブームを醸成。
産経労組、新聞労連より脱退。労使平和協定を結び御用組合へ。
このころより、「合理化」に伴う配転、解雇などの、いわゆる「産経残酷物語」が始まる。
1961皇居前に皇太子結婚記念「大噴水」を設置、国に寄贈。建設費は社員から半強制的に寄付を徴収。
1961.8.15産経連載企画「新しい兵隊さん」開始。内容は自衛隊のPR。
1962.3自衛隊と協賛し、川崎市内に於いて「防衛大博覧会」を開催。
1964滋賀県琵琶湖西岸の比良山にレジャー施設「サンケイバレー」を建設
「サンケイスワローズ(現ヤクルトスワローズ)」の経営に乗り出す。
結果として、借入金累積額が28億に。財界からも水野社長退陣を迫られる。

鹿内ファミリー社長・会長時代

1968.10水野成夫が退任し、鹿内信隆社長就任
1969.5新聞紙名を「サンケイ新聞」に変更。
1969.7 広告主向け説明会にて鹿内社長演説。
「新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢が成っているでしょうか」「完全と守ろう『自由』、警戒せよ、左翼的商業主義!」
1970年より、90年まで毎年元旦に鹿内自らが執筆した「年頭の主張」を掲載。内容は反共、反動、親米、国家主義。
1970.9 田中角栄自民党幹事長による以下のような「田中通達」が全国の自民党支部連合会長、支部長宛に「取扱注意」「親展」として送付される。
「さて、サンケイ新聞は、わが自由民主党の政策を理解されわが党の政策遂行にはたいへんご協力をいただいております。/つきましては地方支部等で、いまだにサンケイ新聞を購読されていない方々に同紙のご愛読をお願いいたしたく存じます。/同紙の拡張はわが党広報活動の拡大にもつながるものでありますので、事情ご了承の上御高配を願い上げます。」
これは国会でも取り上げられ、喜多畑サンケイ新聞政治部長は「販売拡大への協力を民社、自民党に要請している」と、「田中通達」の存在を認めた。
1973.6.25「正論」欄登場。第一回目は猪木正道防衛大学長。
1973.12.2自民党による日本共産党を誹謗する内容の「意見広告」を掲載。この広告出稿は毎日、朝日、読売にも持ち込まれたが、いずれも掲載を拒否。
1974.11鹿内信隆、フジサンケイグループ会長に就任。
1976.4「刷新三カ年計画」による、800人のレイオフ、賃金の大幅ダウン。
1976.6「正論活動調査会」設置。
1978.5鹿内社長、編集主幹として、編集の全権を掌握。通常、新聞においては、経営者と編集者は兼務しない。
1977.3サンケイ新聞輸送会社において、「過労死」発生。裁判により83年和解。
1983行革礼賛・推進キャンペーン開始。行革の結果、国鉄などが民営化され、それらの労働組合も弱体化。労働組合を支持基盤としていた社会党も弱体化。
1985.6鹿内信隆、産経新聞社長を退任し、取締役へ(後継社長、植田新也)。息子の鹿内春雄が代表取締役会長に就任。
1987鹿内春雄会長、「飛躍への大改革」を発表。大規模な配転等の結果、1700人以上が退職することに。数十億とも言う赤字を抱えたサンケイ出版をフジテレビ系列の扶桑社に吸収合併。「週刊サンケイ」が「SPA!」に。
1988.4鹿内春雄会長死去。鹿内信隆の娘婿、鹿内宏明が産経新聞、フジテレビ、日本放送の代表取締役会長に就任。
1989.10フジサンケイグループ、10億とも言われる巨費を投じて、レーガン前大統領を招待。産経紙面では20ページもの大特集。
1990.10鹿内信隆死去。
1992.7鹿内宏明、産経新聞会長を解任される。いわゆる「産経クーデター」。鹿内宏明によるグループの目に余る私物化が原因とされる。背後には財界の意向があったと言われる。産経新聞社社長には羽佐間重彰、フジテレビ社長には日枝久が就任。
鹿内宏明解任騒動における財界との関係について、日枝フジテレビ社長は「財界のご理解を事前に得ていました。・・・・・・歴史的な経緯を見れば、ニッポン放送、フジテレビは財界が中心となって作られた企業ですし、産経新聞も財界の支援をいただいたことは存じています。私はその原点を忘れてはいけないと思っています・・・・・・」(文藝春秋一九九二年九月特別号)と述べた。
(参考資料:「ドキュメント産経新聞私史」(高山尚武著 青木書店)

 ざっとこんな感じになるのだが、産経新聞がいかに財界層に取り込まれてしまっているかがよくわかると思う。そんな連中の書いた記事を庶民がありがたがるはずもなく、全国紙のなかでは既に書いたように、産経の発行部数は一番少ない。台所事情も苦しいらしいのだが、その責任をリストラという形で社員に押しつける辺りも、なんだか、「財界」っぽい。
 財界、というか経営者にしてみれば、黙っていうことを聞く社員、責任を引き受けてくれる部下はとても有り難いものであるから、そういう人間を育てるような教育を望むのは当然の帰結であろう。


ゴー宣 Main