実際に想像してみて欲しい。でないとこの思考実験は何の役にも立たない。 そう<あなた>に。思考実験。−−−20xx年、物質を完璧にコピーできる装置が発明された。 あなたはその実験第一号である。窓も何もないがらんとした部屋に、あなたはぽつんと 突っ立っている。あなた自身をコピーして、もうひとりのあなたを造るのが目的である。 コピー先は北海道の、とある研究室。そこの部屋には窓があり、外では雪が舞っている。
あなたは眼を閉じる。実験開始。コピーは一瞬にしておわる。成功である。 あなたは目を開ける・・・。
私の考えでは、答えは「自分によく似た赤の他人」であり、ここでコピーし きれなかったところのなにものかこそが、おそらくは永井が云わんとする<私>、 「わたし」をして<わたし>たらしめている何か、言い換えれば、「あなた」をして <あなた>たらしめている何か、だ(注1)。考察。−−−あなたは無論、窓のないがらんとした部屋に居る。これは確かだ。 問題は、窓の外の雪景色があなたに見えているか、ということ。つまり北海道の コピーもまた、あなたであり得るのか、それともあなたにとっては、そいつは 自分によく似た赤の他人なのか。
「他人たち相互のちがいかたと、ぼくと他人たちとのちがいかたとは、全然ちがっている。 この特別なちがいかたはいったい何なのか? ぼくであるというこの特別さは、いったい どこから来るのか?」 永井均『<子ども>のための哲学』58〜59頁。新生独我論。しかも「本物」の折り紙つき。しかし、永井のせっかくの独在論もまた、 放って置くとすぐに形骸化してしまう、たちの悪さをもっていた。
「・・・<ぼく>の存在はひとつの奇跡なのだ、と。ところが、この議論自体がだれにでも あてはまる一般論だったらしいのだ。とすれば、今や複数個存在するらしい<ぼく>たちの 中から、この<ぼく>を区別するにはどうしたらいいのか。(中略)認識論的な独我論が、 複数化されて普遍的な独我論になるのと同じように、<奇跡>や<物種>の独我論も、 複数化され普遍的な独我論に変わる。すべての「ぼく」が<ぼく>になる。それなら、 世界は、平等に<ぼく>である無数の単独者たちからできているだけなのか。その中で、 この<ぼく>が他のやつらと違っていることはどうあらわされるのか。」 永井均『<子ども>のための哲学』93〜94頁。で、繰り返し、かつ執拗に、以下のごとき呪文を唱えつづけなければならなくなる。
「・・・この等質化・平準化からもう一度離反するためには、再び独在化の 運動が開始されなくてはならない。(中略)独在と頽落の終わることなきこの拮抗運動 なのである。彼は、如何にしても独我論、いや独在論の形骸化をまぬがれぬことを、身をもって示した、 ただそれだけのことなのかもしれない。
もし以上のような記述がまたもや一般的な運動記述へと読み換えられる ならば(必ず読み換えられるのだが)、この記述自体に再び同じ注釈が加えられねばならない。 この過程に終わりはないのだ。」 永井均『<私>の存在の比類なさ』81頁。
あなたはいま、どこに居るのだろう?思考実験、その2。−−−先のコピー装置が作られた翌年、物質を転送する 装置が完成した。スタートレックに出てくる、例のあれである。またも実験台は あなたである。手順は次のとおり。
まず、あなたのコピーが一体つくられる。あなたとそのコピーとは共に 転送装置に吸収される。転送先はエジプトと南極である。が、普通に転送 したのでは面白くない。あなたの左半身だった物質と、コピーの右半身だった 物質を合成しエジプトへ、その逆を南極へと、転送することにする。
さて、本番である。例によってあなたは眼を閉じる。実験は一瞬にしておわり、 あなたは目を開ける・・・。