<私>に関する思考実験



 永井均は、その著作『<子ども>のための哲学』等の中で、<私>という概念を 提出している。

 それは・・・と、永井の云う<私>についての要約を入れたかったのだが、 なかなか上手い説明ができない。で、次のようなたとえ話を考えてみた。

思考実験。−−−20xx年、物質を完璧にコピーできる装置が発明された。 あなたはその実験第一号である。窓も何もないがらんとした部屋に、あなたはぽつんと 突っ立っている。あなた自身をコピーして、もうひとりのあなたを造るのが目的である。 コピー先は北海道の、とある研究室。そこの部屋には窓があり、外では雪が舞っている。

あなたは眼を閉じる。実験開始。コピーは一瞬にしておわる。成功である。 あなたは目を開ける・・・。

 実際に想像してみて欲しい。でないとこの思考実験は何の役にも立たない。 そう<あなた>に。

考察。−−−あなたは無論、窓のないがらんとした部屋に居る。これは確かだ。 問題は、窓の外の雪景色があなたに見えているか、ということ。つまり北海道の コピーもまた、あなたであり得るのか、それともあなたにとっては、そいつは 自分によく似た赤の他人なのか。

 私の考えでは、答えは「自分によく似た赤の他人」であり、ここでコピーし きれなかったところのなにものかこそが、おそらくは永井が云わんとする<私>、 「わたし」をして<わたし>たらしめている何か、言い換えれば、「あなた」をして <あなた>たらしめている何か、だ(注1)。


 注1:もちろん、第三者的にみて「オリジナル」と「コピー」の境界は歴然としている。 しかし、傍観者の視点は、ここでは切り捨ててもらいたい。一切を一般論として呑み 込んでしまう言説の大渦に対する抵抗こそが、ここでの眼目のひとつなのだから。


 さて、永井によれば従来、哲学史上で取り上げられてきた独我論、他人には心や意識が 存在しないかもしれない、などと考えるそんな認識論的懐疑論に由来する独我論は、 実は問題をすりかえられた「にせの」独我論であり、伝達を考えているうちに変質を受け、 意味を履き違え、ついに形骸化してしまった独我論なのだという。
 彼はそのような残骸としての独我論を退け、ほんとうの独我論、いわば独在論を主張する。 それはたとえば、こんなかたちをしている。
「他人たち相互のちがいかたと、ぼくと他人たちとのちがいかたとは、全然ちがっている。 この特別なちがいかたはいったい何なのか? ぼくであるというこの特別さは、いったい どこから来るのか?」 永井均『<子ども>のための哲学』58〜59頁。
 新生独我論。しかも「本物」の折り紙つき。しかし、永井のせっかくの独在論もまた、 放って置くとすぐに形骸化してしまう、たちの悪さをもっていた。
「・・・<ぼく>の存在はひとつの奇跡なのだ、と。ところが、この議論自体がだれにでも あてはまる一般論だったらしいのだ。とすれば、今や複数個存在するらしい<ぼく>たちの 中から、この<ぼく>を区別するにはどうしたらいいのか。(中略)認識論的な独我論が、 複数化されて普遍的な独我論になるのと同じように、<奇跡>や<物種>の独我論も、 複数化され普遍的な独我論に変わる。すべての「ぼく」が<ぼく>になる。それなら、 世界は、平等に<ぼく>である無数の単独者たちからできているだけなのか。その中で、 この<ぼく>が他のやつらと違っていることはどうあらわされるのか。」  永井均『<子ども>のための哲学』93〜94頁。
 で、繰り返し、かつ執拗に、以下のごとき呪文を唱えつづけなければならなくなる。
「・・・この等質化・平準化からもう一度離反するためには、再び独在化の 運動が開始されなくてはならない。(中略)独在と頽落の終わることなきこの拮抗運動 なのである。
 もし以上のような記述がまたもや一般的な運動記述へと読み換えられる ならば(必ず読み換えられるのだが)、この記述自体に再び同じ注釈が加えられねばならない。 この過程に終わりはないのだ。」 永井均『<私>の存在の比類なさ』81頁。
 彼は、如何にしても独我論、いや独在論の形骸化をまぬがれぬことを、身をもって示した、 ただそれだけのことなのかもしれない。
 永井の議論から柄谷行人と同質の「反復しえないものの反復」(注2)的な御託の泥沼を 取り去れば、あとには<私>というわかりやすい表記を考案し一般に広めたという 功績しか残らないように見える。まあ、記号の流通だけでも大したお手柄だけれど。


 注2:この文言は『探究T』に散見される。また、こうとも書く。「超越論的自己とは、 いわば《反復》なのである。それは、そのものとして在るのではなく、たえず《超越論的》 たらんとすることにおいてあるだけだ。それは意志である。」  柄谷行人『探究U』学術文庫版217頁。


 ところで、上の思考実験には続きがある。それはこうだ。

思考実験、その2。−−−先のコピー装置が作られた翌年、物質を転送する 装置が完成した。スタートレックに出てくる、例のあれである。またも実験台は あなたである。手順は次のとおり。

まず、あなたのコピーが一体つくられる。あなたとそのコピーとは共に 転送装置に吸収される。転送先はエジプトと南極である。が、普通に転送 したのでは面白くない。あなたの左半身だった物質と、コピーの右半身だった 物質を合成しエジプトへ、その逆を南極へと、転送することにする。

さて、本番である。例によってあなたは眼を閉じる。実験は一瞬にしておわり、 あなたは目を開ける・・・。

 あなたはいま、どこに居るのだろう?
 あるいは二人ともがあなたであって、あなたはピラミッドと氷の大地とを同時に 感じているのか(注3)。
 想像し難いことではあるが、ひとつめの思考実験にしたところで実は<私>のクオリアをも コピーできていたという可能性も、あるのではないだろうか(注4)。
 いや、ひょっとしたら、あなたはもうどこにも居ず、瓜ふたつだけれどしかし赤の他人が、 ふたり居るだけなのかもしれない。つまり、あなたという意識なるものが、ある種の 関係性の産物だとするならば、あの実験によって消滅し、しかるのちに、また新たに ふたつの肉体に芽生えたのだという見方も可能である。いわば同一性の断絶があったのだ、と。 あなたは実験で死んだことになる・・・(注5)。


 注3:現在、一般に信じられているように、意識がまったく脳の所産であるならば、 あなたは純粋に二人に増殖したことになる。あなたの意識はふたつの異なる空間に居て、 見、聞き、感じ、そして行動する、ふたつともに。でも、それって、あなたに テレパシーの能力がそなわったということになるのだろうか・・・。

 注4:茂木健一郎『脳とクオリア』の第九章には、<私>の同一性に関する議論が クオリア的観点からなされている。

 注5:このことは、意識において死とは何か、ということを考える上で示唆に富む。 たとえば、脳を含む肉体の冷凍保存が、この<私>性までもを保存しうるか、云々。


 のちに知ったことだが、これらの思考実験を含めた人格の同一性に関するさまざまの議論は、 既にデレク・パーフィットという人の著作『理由と人格』において十全に展開されて いるらしい(注6)。
 もっともパーフィット自身の目的は、人格同一性を前提とした問いそのものが実は 「空虚な問い」ではないのかと疑わせ、問題自体を無化することにあるようだ。 そうしたうえで自と他の垣根をなるべく取っ払い、そこに倫理学の基礎をきずこうと目論む。 「私の生と他の人間の生との間にはまだ差異がある。しかし、その差異はより少なくなり、 他の人間はより身近になる。私は自分自身の生の残余に対して執着が少なくなり、 他者の生についてより関心を抱くようになる。」と。
 彼の志向するところは、自他の峻別を好まない日本人にも馴染みやすく思われる。

 言葉は言葉を否定しえない。言葉は全能である。なぜなら言葉の無能を説く如何なる主張も、 やはり言葉と看做され、言葉全能説は、ためにますます補強されてしまう(注7)。
 意識についての意識、もまた同様の構造を持つ。<私>をどんどん追い詰めてゆけば、 最後には畸形・異形の<私>しか残らない。そんな視野狭窄的、閉塞状況的な回路から、 すみやかに離脱する手がかりを、パーフィットは与えてくれているように見える。そこが 彼の魅力である(注8)。

 逆に、永井はとことん袋小路にこだわる。そこから動かない。彼の場所はそこにしか無い。
 そうして彼はひとつの跳躍、あるいはトリックを試みる。彼は、<私>という「図」を 徹底させることで、「他の<私>、他の<魂>」という「地」、すなわち<あなた>を 浮き彫りにしようとたくらむ(注9)。

 その先は・・・たぶん巧くはいくまい。すくなくとも私には興味がない。


 注6:「・・・そこでは、瞬時遠隔移動装置による人間の「電送」や、脳分割・融合など、 SFの古典とも言える思考実験を駆使して、人格の同一性の問題が執拗に論じられている。」  森岡正博「デレク・パーフィットと死の予感」  http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/library01/perfit.htm

 注7:   「あなたは目覚めている」   と、書かれた命題は常に真でしかありえない。

 注8:もっとも、以下のごとく痛烈な批判もある。
「・・・[パーフィットは]霊魂の単純性に含まれる永遠に不可分であるような自己同一という 観念形態を揺るがすために、脳の切断や融合が、人格の分割や融合になるという想定を 持ち出して議論を進めるが、「脳」を物質名詞で示されるような可分的なものと想定して、 その脳と人格が同一だという想定をしている。つまり、この想定そのもに人格を可分的な ものとみなすという前提が含まれているので、パーフィットの問いは、偽装された トートロジーにすぎない。」  加藤尚武「情報内容と情報媒体」 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/kato/info.html

 注9:「・・・なぜならば、<私>の独我論は、それにしたがえば本来存在しえないはずの 他の<私>、他の<魂>の存在を暗に措定したときにのみ、まさに独我論という論として 語りうるものとなる」 永井均『<私>の存在の比類なさ』56頁。


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