原 辰徳・エピソード集



父親との猛特訓

 『忍耐』という言葉が好きな原辰徳は、小さな頃から我慢強く根性のある少年だった。
 長島茂雄が巨人に入団した昭和33年に福岡県で生まれ、小さい頃から長島茂雄に憧れ、小学校1年の時には“将来、巨人に入団する”ことを決心していた。

 その頃、父親は三池工高の野球部の監督として、夏の甲子園大会に出場し優勝していた。
 そして、その父親のコーチを受けることになったのだ。しかし、全国大会優勝を成し遂げたチームを率いた監督だから練習は厳しく、小学生だからと言って手加減はされなかった。
 「タツノリ! 男ならボールに向かって飛びついてこい!」
 ノックの嵐の中、原辰徳は我慢強くボールを追い続けた。そして、野球がどんどん上手になっていったそうだ。


職員室の窓ガラスを割る

 小さい頃から何度も転校を繰り返した原辰徳だが、野球をして遊びながら、すぐに友達と仲良くなった。
 中学校では野球部に入り、ピッチャーとなったが、バッティングも目立っていた。
 何と、ホームから90メートルも離れた職員室の窓ガラスを割ってしまったのだ。これにはもちろん、先生たちも驚いてしまったそうだ。


大けがで投手をあきらめる

 中学2年生のときのことだ。1月の寒い日に、雪の中で友達とサッカーをしていた。そのとき、足をくじいてしまい、左足首が内側に直角に曲がるほどの大けがをしてしまった。
 病院に行ったものの、医者に言われた言葉は衝撃的だった。
 『けがが治っても、もうスポーツはできないだろう。』

 しかし、けがは奇蹟的に1ヶ月で治ってしまい、その後スポーツも段々できるようになった。ただ、足首に負担のかかり過ぎる投手はあきらめるしかなかった。
 それでも、原辰徳はくじけなかった。そのときにこう思ったのだ。
 『長島さんと同じ三塁をやろう。』
 そう決心した辰徳は、新しいポジションにもすぐに慣れ、元気に野球を続けることができたそうだ。


一躍甲子園のアイドルへ

 父親が監督をする東海大相模高校の野球部に入った原辰徳は、3年間三塁手として頑張り、甲子園にも4回出場した。その活躍ぶりで世間の注目を浴びたわけだが、これは想像を絶するものだった。

 「自分をあらゆる意味で大きくしてくれたところ。それが、甲子園だね。あのファンの声援、マンモススタンド‥‥。すべてが今の自分の力になっているよ。」
 後に語ったこの言葉を聞いても、辰徳自身にとってもかけがえのない舞台だったに違いない。
 走攻守3拍子揃っていて、しかも端正なマスクとあれば、女性ファンが放っておくはずもなく、さらに“親子鷹”など話題性も十分でマスコミの報道合戦も過熱した。

 昭和49年夏の甲子園・準々決勝の対鹿児島実業戦で負けた時には、涙をこらえて球場を後にする辰徳に代わり、スタンドのあちこちで女性ファンが号泣する姿が見られたほどだ。
 ファンレターは日に100通以上で、『原親衛隊』まで登場した。甲子園のテレビ中継も通常10%程度なのに、東海大相模の試合は34%まで跳ね上がった。まさに驚きの連続だった。

 そんな世間の注目を浴びる中、数々の活躍を見せた辰徳は野球選手としてだけではなく、ひとりの人間として大きく成長したのだ。


※ 今後、少しずつ原辰徳にまつわるエピソードを紹介していく予定です。

次のページへ

GIANTSファンのためのページ