李氏朝鮮時代の身分制度



●在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(7) 投稿者:解法者  
 投稿日:10月25日(土)00時19分


>李氏朝鮮時代の身分制度(1)<

この時代(1392年―1910年(ただし、1897年からは「大韓帝国」であったが、実体は李氏朝鮮時代))の身分制度も高麗時代のものを継承した。身分は、大きく「良民」と「賤民」に分かれる。

「良民」とは、自由民であり、納税、国役の義務を負い、さらに「両班(文班、武班)」、「中人(下級役人、技術官など)」、「常民(農民、商人、職人)」に分けられた。「賤民」は「奴隷―奴婢」と「白丁(ペクチョン)(動物の屠殺に従事する者)」、「才人(広大ともいう)(芸人)」、「官妓(役所に所属する酌婦)」、「牽令(キュンエン)(牛・馬を引く者)」、「砲手(猟師)」、「水尺(スチョク)(狩猟民)」、「駅卒(駅の使用人)」、「巫女」、「僧侶」など多岐にわたっていた。

「奴婢」は「公奴婢―国家に所属するもの」と「私奴婢―個人に所属するもの」に分けられていた。さらに奴婢は「公奴婢、」「私奴婢」とも「入役奴婢」と「納貢奴婢」とがあった。「入役奴婢」は、国の労役や主人の雑役に従事しなければならないが、「納貢奴婢」は国や主人から独立の生計を営みながら一定の身貢をする義務があった。



●在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(8) 投稿者:解法者  
 投稿日:10月25日(土)00時21分


>李氏朝鮮時代の身分制度(2)<

「奴婢」は売買、贈与、相続の対象となった。つまり、財物として扱われていた。
父母の一方が奴婢の場合は、子も奴婢となった。「両班」が罪を犯し「奴婢」になったり、「奴婢」が軍功などで「中人」、「常民」になったりすることもあったが、極めてまれで身分間の移動はなかった。

豊臣秀吉の朝鮮征伐(文禄の役(1592年―朝鮮では壬辰倭乱(イムジンウェラン)・慶長の役(1596年―朝鮮では丁酉再乱(チョンユウチェラン))のときに、ソウルの王宮(景福宮)が放火され炎上したが、これは日本軍のものではなく(朝鮮では日本軍が放火したと捏造している)、奴婢が登録簿を滅失させるために行ったものである。日本の名誉のために当時の文書から引用する。「城中を観望すれば、火起こりて煙焔天に漲る。蓋し乱民先ず、堂隷院刑曹を焚く。その公私奴婢の文籍在る所を以ってなり・・・・」(朝鮮史第四編第九巻宣王25年4月30日)。

奴婢制度は、1894年の甲午改革で廃止されるまで続いた。しかし、なかなかその偏見は収まらず、現在でも「五姓」といって賎民の子孫とされる「姓」があり、結婚・就職などの障害が見られる。



●在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(9) 投稿者:解法者  
 投稿日:10月25日(土)00時23分


>李氏朝鮮時代の身分制度(3)<

李氏朝鮮時代には、どのくらいの「奴隷―奴婢」がいたのであろうか。
これについては、現存する李氏朝鮮時代の「戸籍帳籍」は「山陰帳籍―1603 年、1630年」と「大邸帳籍―1690 年-1849年」を分析すればわかる。これらの「戸籍帳籍」は日本人研究者に公開されていないと聞くから(次に韓国に行ったら確認してみる)、専ら、四方博京城大学教授(執筆当時)の「朝鮮社会経済史研究(中)」から引用する。

「大邸帳籍―1690 年-1849年」は現在の韓国中部の都市<大邸(李氏朝鮮時代は大丘)―韓国第二の都市>の人口調査の帳簿である。そこから、約11の面(村)を選び出して分析を加えている。

期間 両班戸 常民戸 奴婢戸 総計
1 粛宗16年(1690年) 290戸 1694戸 1171戸 3156戸
2 英祖5年(1729年)、
同8年(1732年)
579戸 1689戸 824戸 3092戸
3 正祖7年(1690年)、
同10年(1786年)、
同13年(1789年)
1055戸 1616戸 140戸 2810戸
4 哲宗9年(1858年) 2099戸 842戸 44戸 2985戸


☆2、3、は1面の統計がない、したがって、各戸の計は1割減くらいと思われる。また、王の年代に2つ、3つの時代があるのは、面が年代によってばらばらに分かれているからである。



●在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(10) 投稿者:解法者  
 投稿日:10月25日(土)00時26分


>李氏朝鮮時代の身分制度(4)<

それでは、李氏朝鮮時代の「奴隷―奴婢」の数はどうだったのであろうか。
「大邸帳籍―1690 年-1849年」からの四方 博京城大学教授(執筆当時)の「朝鮮社会経済史研究(中)」から引用する。調査された面は「李氏朝鮮時代の身分制度(3)」に対応する。

期間 両班 常民 奴婢 総計
1 粛宗16年(1690年) 1027人 6894人 5592人 13912人
2 英祖5年(1729年)、
同8年(1732年)
2026人 8066人 4940人 15266人
3 正祖7年(1690年)、
同10年(1786年)、
同13年(1789年)
3926人 6415人 1957人 12300人
4 哲宗9年(1858年) 6410人 2659人 4126人 13195人


☆6、7、は1面の統計がない、したがって、各人口の計は1割減くらいと思われる。また、王の年代に2つ、3つの時代があるのは、面が年代によってばらばらに分かれているからである。



●在日朝鮮人のための朝鮮歴史講座(11) 投稿者:解法者  
 投稿日:10月25日(土)00時28分


>李氏朝鮮時代の身分制度(5)<

この表を見てわかることは、「両班」の異常な増加である。粛宗16年(1690年)と哲宗9年(1858年)を比較しても、170年間の間に、戸数にして7.23倍、人口にして6.24倍、となっている哲宗9年(1858年)には、戸数の70.3%、人口の48.5%、となって、<両班大国>の様相を呈していた。支配階級が過半数を占めている。これを以ってしても異常な時代であったことは想像に難くない。

この増加については李氏朝鮮時代にも記録がある。丁 若庸(本当は金偏がつく)[1762-1836]の「牧民心書」、禹 夏永「禹夏永経論」に「両班」の身分を冒称することが盛んに行われていることが記述されており、国の法典の「続(経国)大典(1974年)」の刑法典の公賤条にも「三代にわたって<良人(両班も含まれる)>を冒称する者はこれが認められる」との規定が見られる。また、売官もとても多かった(「増補文献備考―宣祖13年(1565年)、「禹夏永経論」。

「奴婢戸」および「奴婢人口」の正祖7年(1690年)、同10年(1786年)、同13年(1789年の急激な現象は、逃亡、放売(奴婢は売買された)による。これについても「大邸帳籍―1690 年-1849年」に記録がある。哲宗9年(1858年)の「奴婢戸」の現象が顕著であるにもかかわらず、「奴婢人口」が変動していないことは奴婢戸当たりの奴婢人口が増えていること奴婢を一まとめにしたものとされる。

粛宗16年(1690年)と哲宗9年(1858年)を比較しても、170年間の間で、人口が全く増えていないことに驚く。これは李氏朝鮮王朝の苛政である。これはこの地方の特徴ではなく、全国的な特徴である。これについては既に詳説したが、なお再度調査している。これが日本統治時代になると増加に転じ、大幅な増加となった。もちろん、善政である。


海馬之玄関亭主の感想
◆儒教原理主義社会か? 投稿者:KABU@九州  
 投稿日:10月25日(土)15時35分


>解法者さま

帰省先にいますので短信。私は、常々、李氏時代の朝鮮半島の社会体制は<儒教原理主義>ではなかったと思っています。ポルポト派のクメールルージュやネパールの共産主義勢力が、本家、中国の毛派イデオロギーよりも洗練されていた(?)のと同じ意味でです。本家、中国には、マオ派イデオロギーと釣り合いを取るべきカウンターイデオロギーがあったから、表面的な過激な文革思想も実際はある程度限定された形でしか実現されなかった(少なくともマクロ的には)。けれど、カンボジア等では、毛先生の教義が遠慮なく適用されたのではいか、と。そして、我が神州の大東亜戦争後の戦後民主主義者が垂れ流す憲法解釈を読むとき、李氏時代をあんまり笑えないと、背筋が冷たくなるのです。これ、重要なポイントだと思いますので機会を見つけて敷衍させていただきます。投稿有り難うございました。勉強になります。

KABU拝

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