★ネタバレ感想★
六番目の小夜子
恩田 陸
ある学校で生徒たちの間に密かに伝わる<サヨコ>の伝説。3年に1度サヨコと呼ばれる生徒が選ばれ、何かをするという。「六番目のサヨコ」が選ばれるはずの年、一人の転校生がやってきた。――津村沙世子。その名前は交通事故でなくなった2番目に選ばれたサヨコと同じ名前だった。
学園ファンタジィ――なのかな?学校に長年と伝わる伝説を背景にしているので、もっと恐い話かと思いましたが、恐さはあまり感じませんでした。それよりも夢のような時間じゃないか――そういう気持ちを強く感じましたね。いくばくかの切なさと、限りない愛おしさに溢れた物語だったと思います。どうして移ろう時間というのはこんなにも貴重なのだろう?
この物語で1番興味深く面白いところは、津村沙世子の存在だと思います。ふたばは沙世子さんがとても好きです。彼女の魅力はそのうちにあるアンビバレンツさだと思います。魔女のようでありあどけない少女のようである。快活でありながらその奥に妖しくかぎろうものを感じさせる――そんな反するいくつもの感情が複雑に入り乱れているところが彼女の魅力でしょう。<サヨコ>であることを求めながら、それを終わらせようとする。サヨコというシステムの大いなる一部であることを望みながら、特別な存在でない<私>であることを望む、そんなアンビバレンツ。秋への気持ちだってそんなアンビバレンツに満ちていると思います。沙世子と秋はとても似ている。うちとけているようで何処か交わらない所が。いわば集はもう一人の沙世子のような存在です。沙世子の秋への感情は、同類に対する嫌悪であると同時にいとおしむようなやはりアンビバレンツな感情だと思います。だから彼女は秋のことが好きでありながら(こう書くとチープな感じがしていやなんだが)、雅子のような王子様を慕うお姫さまでいることよりも、秋と対立するもう一人の<サヨコ>――魔女になることを選んだのではないでしょうか。お姫さまでより魔女でいるほうが、王子様とたとえ対立する関係であっても、少なくとも対等です。あるいは一緒に輝くような関係とはそういうものなのかもしれません。
「学校は生きている」と感じたことはないだろうか?。学校というのは外界から閉ざされ場所であり、学校独自の特殊な雰囲気・特殊な時間を持っている。そこに通う生徒たちは次々と去っていく。でも学校はその場に佇み≪永遠≫という時を繰り返しているのである。そこに通う生徒たちはいわば学校という生物に循環する血液みたいなもの。彼らがその中で3年という限られた時間を過ごす。その時間は≪永遠≫には程遠い≪一瞬≫というほど短いものだ。<サヨコ>の伝説が生徒たちの誰もが知らないように3年というサイクルで繰り返されていることは、この≪永遠≫と≪一瞬≫を象徴しているように感じる。学校にとっては3年ごとに新たに繰り返される≪永遠≫に続くサイクル。しかし生徒たちにとっては高校生活でたった1度だけ訪れる刹那な時間だ。
学校が≪永遠≫を望んでいると感じたことはないだろうか?<サヨコ>の伝説を存続させようという「意志」があるのだとしたらそれは「学校」そのものの意志だろう。実際に<サヨコ>を運営管理していたのが黒川という教師であったとしても、彼もまたシステムの一部なのではないかと。彼は学校という空間を愛しその永続を願っている。彼のような「学校の≪永遠≫」を願う人々が一部となりそれが集まって全体を作る。その全体に作用するのが「学校」なのである。学校という永遠の庭を願う人たちの想いが学校という器に注がれ巨大な意志になったのだ。学校が<サヨコ>を必要としたのだ。時を繰り返す≪永遠≫のサイクルを作るシステムとして。生徒という血液を3年ごとに循環させて、それをきちんと循環させる血管や心臓として<サヨコ>がいたのではないだろうか。
しかしたとえ生徒たちがシステムの一部、学校という≪永遠≫を存続させるための血液だとしても、生徒たちもまた学校という時の中で生きているのである。たとえ彼らの時間が≪一瞬≫のことだとしても。学校という世界は生徒たちを一様にする。学校にとって必要なのは、学校という時を永続させる血液であり多様性は必要ないのかもしれない。しかし彼らはその中で「私はここにいる!」と叫ぶのだ。彼らの≪一瞬≫の時間が輝くものであるように。学園祭での「六番目の小夜子」という芝居は、「私たちは学校という≪永遠≫を作るシステムの一部ではないんだ」「循環するの血液ではないんだ」という生徒たちの反乱だったのではないだろうか。たとえそれすらが永遠のためのシステムであり、大河の中に放り投げた小さな石ころに過ぎなくても、彼らの≪一瞬≫はたしかに光が輝いた。――私たちは限られた時間しかここにいないけど、でも私たちは「ここにいる」――あの芝居はそういう叫びだった気がする。彼らの一様ではないさまざまな響きを持って声が、たとえその行動すら<学校>の意志によるものだったにしても、生徒たちはその場で懸命に抗い「私」を叫んだのではないだろうか。だからこそ、その時起こった彼らの反乱をいさめるような恐ろしい出来事も――「きれい」とすら思える奇跡のような彼らの思い出になったのだろう。
「六番目の小夜子」の年の生徒たちは卒業し、また新たの生徒たちが学校に入学してくる。古い血液は新しい血液と取りかえられてまた循環し続ける。生徒たちの反乱すらシステムの一部。学校という≪永遠≫は結局無くなるわけはない。でも学校は待っているのかもしれない。≪永遠≫の時の中で生徒たちが懸命に演じる≪一瞬≫を。きっと――。
時々、このまま永遠に自分の中に焼き付いてしまうのではないかと思う瞬間がある。今がそうだ。いつかきっと、こんな時間を、こうして隣でだらしなく学生服を着て無防備な顔で話しかけてくる由紀夫の声を、懐かしく思う時が来るに違いない
――関根 秋