「多重人格」を扱っているということで、テーマは「実在不安」――自分は果たして本当に存在しているのか、という問いがこの物語の根底にはあると思う。
「我思うゆえに我あり」と言うけれど、多重人格者の場合、私は存在していると思っていてもそれは作られたかりそめの人格に過ぎないかもしれないのだ。
しかしそれが必要に迫られて作り出された偽の人格だとしても、もし人と出会い愛し悲しんだり怒ったり憎んだりしたとするのだとしたら、その作られた人格は――偽者であるはずの人格は本当に存在しないといって良いのだろうか?本物の人格と作られた人格のいったい何処に違いがあるのだろうか?
――それに、である。自分が本当の自分だと思っている人格がどうして本物だと言えるのだろう?自分が作られたかりそめの人格で元の人格は他にいるかもしれないのだとどうして言えないのだろう?もしかしたら、自分は正義の味方だと疑わない大量生産のおもちゃに過ぎないのかもしれないではないか。
しかもこの物語においての仮の人格は自分の中から出てきたのですらなく、周りの人間や小説のキャラクタなどすでにある人格からサンプリングした(だからテクノミュージックなんだ)全くの借り物でしかない。しかしそんな人格ですら自分の存在に疑いを持たず、端からみても確かにそこに――その人の中に存在している。物語のラスト香奈子は、ついに「私は、存在しない」と気付く。でもそう気付いた私はいったい何処にいるのだろうか?
この物語はミステリィではあるけれど、そういう恐怖がそこにはある。途中スプラッタだし、幼いころ抱え込んだトラウマのために「狂った」(あえてそう書くが)人間の恐怖もある。しかし一番最後にふと気がつかされるのは、読者の身につまされたそんな恐怖だ。――自分は存在していると言えるだろうか?