★ネタバレ感想★
クビシメロマンチスト
人間失格・零崎人識西尾維新
<あらすじ>
京都の街を連続殺人鬼が震撼させていたころ、いーちゃんこと「ぼく」は大学のクラスメートで特に親しくもない葵井巫女子に突然誘われて、やはり見ず知らずのクラスメート江本智恵の誕生パーティに出ていた。しかしその次の日、江本智恵が絞殺死体で発見された。衝撃を受けるクラスメートの中で冷静なぼく。しかし――。自分とよく似た殺人鬼・零崎人識との出会い。それは一つの世界が崩壊する瞬間だった。
<感想>
これは一つの世界が崩壊する物語――だそうである。この物語で登場する2人の人殺しの対比がすなわちこの物語のテーマだろう。――その2人とは殺人鬼・零崎人識と友達を嫉妬から殺した葵井巫女子。――零崎は、主人公・いーが人を殺す可能性としての存在なので、つまりこの対比は、いーちゃんと巫女子との対比である。いーちゃんにとって零崎とは水面に映った自分であるが、2人を分かつその水面は、人を殺すという行為だろう。いーちゃんは自ら平気で人を殺せると語るけど、殺してはいない。世界に対しても自分に対しても何の希望も抱いていない傍観者の戯言使い。それゆえに人に何の感情もわかず平気で殺しうるけれども、でもいーちゃんは水面の向こう側には行っていないのだ。しかし巫女子はいーちゃんを好きになってそのいーちゃんと同じ雰囲気を持ちすぐに打ち解けてしまった(ように見えた)友達を嫉妬から殺し、水面の向こう側の世界へと行ってしまう。いーちゃんにとっての向こう側の自分が零崎だとしたら、巫女子にとっての向こう側の自分は人を殺してしまった自分自身そのものだ。人を殺すことは罪悪である。世の中に関心のないいーちゃんにとても多少はそれはある。それでもいーちゃんが殺人鬼の零崎を認めることが出来たのは自分自身が嫌いすぎたからだ。嫌いすぎて、だからこそ可能性の自分を受け入れることが出来た。とてもそうはなれないしてもだ。しかし巫女子は人殺しという水面を超えてしまった自分を当然ながら認めることが出来ない。友達を殺して水面を越えた世界で得たものは空虚さのみ。巫女子が水面を超えた理由がいーちゃんを好きになったこと。だからいーちゃんにそれを認め許して欲しかった。……しかし人間失格の裏側である傍観者いーちゃんはそれを許さない。いやどうでも良いとすら思っていたし、人を殺すという行為を憎悪してすらいた。だらか巫女子に巫女子自身では直視できない罪をあえて問う――「お前はお前の存在を許すのか」と。……結局は巫女子のひとり相撲。彼女の夢見た世界は崩壊した。いやそもそもが幻だったのだ。誰かを好きになった――それを免罪符に友達を殺した。しかしその免罪符を出したのは好きになった人ではなくて、自分自身。 ロマンチストとは――夢を見る人。とある対象に素敵で過大な夢を見る。対象はスクリーン。水面と同じ。そこに夢を映し出しているのは自分自身。見ているのは実は水面に映る自分の姿。どんなに美しくどんなに魅力的でも、触れることはできない。自分自身が揺らぐ時、その幻の世界、水面の中の世界は消え去るしかない。
X/Y――流れるような文字に込められた自分の誕生日。でも届くのは水の向こうの世界だけだった。
たとえばあたしを殺してみろ。安心しろ、それでも
世界は何も動かないよ――哀川潤