★ネタバレ感想★


赤緑黒白
Red Green Black and White

森博嗣


<あらすじ>

 深夜のマンションで殺された赤井寛氏の死体は、真っ赤に塗装されていた。数日後、赤井氏の婚約者と名乗る女性から事件の調査の依頼を受けた保呂草だが、何の進展もないまま、今度はその女性が殺されて緑色に塗装された死体を発見することになる。その女性の名は田口美登里(みどり)だった。――Vシリーズ第10弾、完結編。


<感想>

 まず語らなければいけないのは、エピローグの存在でしょうね。「林」というのは実は苗字ではなく、名前だった!!「○川 林」って――。彼と紅子さんのむすこが「へっくん」だし。最後の出てくる妙に大人びた――それどころか今作の背後ですべてをコントロールしているようにすら思える少女の名前が「春夏秋冬」を表す言葉。――森ミステリィを追いかけているふたばにとっては、当然、「○川 林」は「犀川 林」だし、「へっくん」は「創平」だし、少女の名前は「四季」とだと思えてしまう。――実は、「へっくん」の正体が「犀川先生」ではという話はだれかに聞いたことがありました。でも短編『ぶるぶる人形にうってつけの夜』や『捩れ屋敷の利鈍』を読んで、安心(?)してたんですけど――でもそれはブラフだったのね(笑)。正直、そんな情報――どこのだれから聞いたのかは忘れましたが――知りたくなかったです。知らずにこれを読んだら、きっと息が詰まるほど衝撃があったと思う。それなのに、実際には「ああ、やっぱり」くらいの感慨しかなかったのが残念でなりません。でもラストで四季博士が登場したのに息が詰まるほど驚きました。そうか!!訳のわからないへんてこな(笑)タイトルは真賀田四季を示していたのか!!
 ――いやまだ解らないけどね。どれもはっきりと書かれている訳じゃないし、実はさらにフェイントかもしれないし。でもそうだ考えると、S&Mシリーズで背後に潜みすべてをコントロールしていた「真賀田四季」が、Vシリ−ズでも背景として大きな影響力を持っていたということになって、この一貫性に背筋がゾーとして鳥肌が立つ思いがします。紅子さんと犀川先生、親子そろって四季博士に関わってたなんて、すっごい因縁(笑)。当然、四季博士は知っていたんだろうな――とかそんなことも考えてみたりして (笑)。――それにしても、Vシリーズの最終作のラストが紅子と四季の会話で終わり、S&Mシリーズの最初の作品のラストが、犀川先生と四季博士の会話で終わるというのはなんだかとっても綺麗ですね。――考えて見れば両方とも舞台はN大の図書館だし、2人とも論文を探しに来て四季博士と出会うのでした。

 正直、四季博士の登場で霞んじゃいましたが、エピローグの前の紅子さんと保呂草さんの別れのシーン――女王と騎士!!――も感動的でした。保呂草さんが紅子さんの前からさったのは、紅子さんを純粋なきもちで見つづけたいからだと思う。見つづけたいからあえて去った。「所有する」ということはつまり欲だからね。関根朔太の絵画を裏の絵が見たいと思ったから、わざわざ大手間をかけて忍び込んで結局は持ち去ることをやめたのと同じ。プロローグのコレクターの話と同じ。いろいろ手間をかけて準備しそれを手に入れることを想像することは純粋な喜びだけど、いざそれを手に入れたらもう惰性というか。そもそも所有することはそれをずっと見つづけたいからなのに、所有したとたんにその見たいという純粋な気持ちとはかけ離れた欲が付きまとってくる。保呂草さんはそれがきっといやだったんだ。このまま紅子さんと一緒にいつづけて、所有したくなることが怖かったんだと思う。出会ってからこの人を見ていたちという純粋な気持ちが濁って消えてしまうのが怖かったんじゃないかな。

 

 さてこの物語はなにより「紅子」さんの物語。彼女が最愛の人・林さんと別れた理由から彼女の内面似至るまで、すべてではないだろうけどこれまでよりかなり細かく書かれている。特に注目すべきところは、今作の犯人・室生や「黒猫」の犯人秋野と、紅子が同じ種類の人間であるという指摘だ。
 室生や秋野は完全に社会から逸脱しているので、社会の番人である警察にとっては全く理解の外にあり尻尾すら捕まえることは出来ない。でも紅子さんはほとんど直感的に班員がどう言う種類の人間でどんな思想から行われた野かを理解している。これは紅子さんが室生や秋野と同じ種類の人間であることを示している。これはつまり紅子さんも一歩間違えたら同じように人を殺していたかもしれないということだ。でも紅子さんは人を殺さない。同じ種類の人間と言っても、室生や秋野とは決定的に違うものが、紅子さんにはある。それはなにか?

 今作はあきらかにVシリーズ第1作『黒猫の三角』を意識して書かれている。犯罪の種類が似ているのだ。『黒猫』の意味あることからの離脱を求めた秋野と『赤緑』の殺してみたかったから殺した室生。彼らは「子供」だという。「子供」だけがこの種の事件をひきおこすことができるのだと。
 「社会」とは大人が生きやすいようにルールを定めた世界だ。個人に好き勝手に生きられたら周りの他人が迷惑するから、周りに迷惑をかけないために個人の行動を規制した世界が「社会」。「理性」とはそのルールに沿って生きるように長い年月をかけて刷り込まれた箍。人間はそんな箍やルールに少しづつ自分を丸められ、その中で生きるように作り変えられ「大人」になる。大人とは社会に適応して生きる人たちのことだ。

 ところが「子供」はまだ社会のルールを刷り込まれていない。社会が個人を我慢して他者と協調していくシステムであることを考えれば、衝動に従うことをやめない子供の世界には他者は存在せず自分ひとりしかいないことになる。つまり「子供」とは他者を許容しない存在といえる。子供は純粋だとよくいうけれ、実はその純粋さは他者を思いやらない酷薄さとも言えるかもしれない。子どもだから意味なく殺せる。綺麗な張著のに見とれていた次の瞬間に羽を引き千切ってしまうように。闇の中で瞬いた光へ瞬間的に手を伸ばすような純粋な衝動――純粋なインスピレーションに動かされて。秋野や室生は特別な子供だった。本来から子供は社会から遠い存在だけど、さらに特別だった2人は大人になってからも社会に毒されない特別な存在になるはすだった。ところが実際には確かに他の大人たちとは違うけど、日々社会から毒されていることを感じざるを得ない。――自分が特別でなくなったと感じるのだ。だから人を殺してみたのだろう。社会のルールに自分を丸めることを潔しとせず、そこから完全に離脱して自分のルールで生きるために。意味あることへの反発し、子供の純粋なインスピレーションを取り戻す為。

 さて先ほどの問い。なぜ紅子は人を殺さないのか?紅子もまた社会から逸脱して独自のルールを持ちそれにしたがって生きている。2人の殺人者が理解できるという。紅子は紅子を押さえているという。『黒猫』において紅子は秋野を恐れたし、今作では室生に怒る。それは紅子の中に2人がいる証。同じ気持ちがあるから秋野を――というより自分の中にある衝動を恐れたし、室生に怒りもした。早死とわかれる寸前には、自殺を――つまり自分を殺すことも考えている。でも紅子は人を殺さない。保呂草さんが言ったように紅子さんは「大丈夫」なのだ。こんなセリフがあった。

紅子「貴方(秋野)が望んで遠ざけたたものが私の身近にはある。それが貴方と私の違い。私には息子がいますし、それに研究しなければならない課題が山積みなの」(『猫の三角』)

紅子「だけど、私の前には、乗り越えられない柵があったわ。それは、法律とか、世間体ではなくて、その先生が好きだ、その先生の存在が自分にとっては大切だという、私の認識です」(『赤緑黒白』)

――つまりこれが答えだと思う。子供と大人を分けるもの――他者の存在が、紅子の中にはあった。社会を拒絶し自分のルールにしたがって生きる者の中で紅子にだけ自分以外の貴重に思える存在、――愛すべき人たちがいた。それは林さんだしへっ君だし保呂草さんや練無、シコさんたち。――彼らの存在が、紅子を生かしつづける。それが、それだけが理由だ。

 

「貴方の幸せは、僕の幸せです」保呂草は言った。
紅子はじっと彼を見据え、やがて微笑む。
夜が逃げ出すのではないか、とさえ思えた。
「下がってよろしい」紅子は片手を差し出した。
保呂草は彼女の手を撮り、地面に片膝をつく。
彼女の手にキスをした。
「ご苦労でした」紅子は首を傾げて言う。
「おやすみなさい」保呂草は紅子の手を離す。


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