★ネタバレ感想★


そして二人だけになった
Until Death Do Us Part

森博嗣

 


<あらすじ>

 全長4000メートルの海峡大橋を支えるコンクリートの巨大な塊<アンカレイジ>。内部に造られた窓一つない空間に集まった科学者・建築家・医師の六名。プログラムの異常により海水に囲まれ完全な密室となったこの建物の中で、次々と起こる殺人……。最後に残ったのは、盲目の若き天才科学者とアシスタントの二人だった。


<感想>

 森博嗣の作品の魅力は、ミステリーのかたちを借りて、実はミステリー以外のものをあらわそうとしている点にあると思う。この作品も、そうで、ミステリーとしては、とても不思議な作品だ。トリックに対する解答はある。誰もがバカらしいと思うような、大掛かりな仕掛けだ。二人の登場人物の一人称が、交互に描かれるのは、そのためだった。しかし、それは最後には覆されてしまう。僕が誰で、私が誰なのか。何が本当で、何が偽りなのか。何が現実で、何が虚構なのか。理解できずに、めまいがしてくる。

 そもそも、現実と虚構はどう違うのだろう。
 現実は主観によって認識される。その主観というものは、個人個人のもので異なっている。異なった主観で認識する現実は、異なっていて当然である。現実が個人の主観によって違ってしまうのなら、現実は確かなものといえるだろうか?
 虚構も、認識しだいで、現実になってしまう。なぜなら、人は思いこむことで、容易に間違いを本当と信じるからだ。ウソを本当と思いこむことで、ウソがその人には現実となる。たとえば、映画のCGを、ふたばは作られたものと知っている。それは偽ものだ。だが、もしCGと言う物を知らない人――未開の人や小さな子供にそれを見せたら、それは本物と思いこむだろう。彼らにとって、それは現実にあるものなのだ。

 この作品で、勅使河原潤の中にいる4人の人格は、他の人格を自分の外にあると認識している。だから、お互いに惹かたり、抱かれたりする。他の人にとってはただ一人なのに、彼らの中では4人のドラマがある。彼らの存在は、はたから見れば虚構だ。しかし、そう認識している彼らにとっては、それが現実なのだ。現実とは認識することで存在する。
 現実と虚構の区別は、かくもあやふやなものだ。「胡蝶の夢」の故事の通り、結局、現実と虚構の違いとは、個人がどう認識するかの違いだけなのだろう。



「何が良くて、何が悪い、と簡単に決められない問題です。簡単に割り切ってしまわないで、常に悩み、考えるしかありません。答は、ないのです」

 

――勅使河原潤


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