★ネタバレ感想★
鉄鼠の檻
京極夏彦
地に埋もれた書庫から発見された古書の調査をするため、箱根を訪れた京極堂と関口。その書庫にはあってはならない書物が存在した。―― 一方、敦子と鳥口は「禅」を科学で捉えるという企画の下調べのために長い間一般に知られることのなかった明慧寺という禅寺を訪れるべくやはり箱根へ。中継地点の旅館仙石楼で、古物商の今川、元医者で敦子の知り合いでもある久遠寺老人と出会うが、そこで突然雪の積もった庭から僧侶の死体が現れた。
――神聖な宗教の寺院である禅寺が舞台で、登場人物たちのほとんどが精進潔斎して欲望を排した生活を送り、悟りを目指しているはず僧侶。……なのに一般人よりもよっぽどアブノーマルな欲望に囚われているのは一体(笑)。……ノーマルな欲望を抑制するから、かえってより強力なアブノーマルな欲望に囚われてしまうということかな?――でもでも、そのアブノーマルの欲望に引きつけられるふたばがいたりして(笑)。なんか好きだ、この作品。――むしろこれまで読んだ京極作品の中で一番好きかも(笑)。禅という正体不明で捉えどころのないしかし強く引きつけられる素材も好みだけど、なんといってこの禁断な雰囲気がなんともいえないですね(笑)。禁じられるからつい求めてしまうってあるよね。隠されるから見たくなるとか(笑)。アブノーマルやのお。いやそれはきっと隠れているだけで誰にでもある欲望。――最後のくだりなんてもうムチャクチャ好みですね(笑)。本作のテーマは「禅」でも「悟り」でもなくて、じつは禁断――「タブー」に決まり!!(少なくとも裏テーマは)。……欲望から目を背けて得られる悟りがいかほどのものか、目も前に欲望の対象が現れたときの僧侶たちの反応を見れば一目瞭然だし、欲望を遠ざけて悟りでございっていうなら誰でもできますしね(笑)。
「禅」とはなにか?――と言葉で問うのは間違っている――禅とは言葉では語れぬもの――だそうだがあえて考えてみる。
ひとはときどきは「自分が生きていることに何か意味があるのか?」などと考えたりするが 、実はすべての生物は偶発的に発生した生命であるに過ぎず、生きていること意味があるわけではない。あるいは「それを探すために生きている」というのが答えなのかも知ないが、それも答えのための答えという感じで真実は納得しがたいものがある。
第―、何故そんな問いの答えを求めるのだろう? そんな風に、生きることの意味など考え始めると思考が暗い袋小路に入り込み迷い恐れるだけだ。なにも考えなくても自然に歩けているのに、歩き方を具体的に考えようとすると歩けなくなるのと同じ。
――生き方を問うと、生きては行けなくなる。――生きることに何かを求めたり何かが得られると思っていること自体が、実はその人を閉じ込めその場から進むことを出来なくさせる「檻」にしかならない。そんなこと考えなくても、人はただ生きていける。
本作では「禅」とは「生きながらにして脳という呪縛から解き放たれようとする法」だとある。世界を作り認識するのは脳であるし、自己という存在を認識し作るのも脳だ。生きている限り脳からは逃れられない。しかしそれを生きながらにしてやるのが「禅」だという。脳が見せる宗教的神秘体験――それは他の宗教ならば「奇跡」と呼ばれる宗教そのもとというべきものを、それを魔境と受け流し修行を続けるという。「悟り」も一瞬。その後の修行が大事だと。――それはつまり修行は手段ではなく目的ということなのだろう。生きることがすなわち「禅」だ。ただ漠然と生きるのではなく、修行であることを意識しつつ、それで何かが得られると思うこと自体を捨て去る思想、それこそが「禅」だのだろう(思想という言葉は違うかも知れないが)。
外界を絶ち禁欲に生きることで、実はより強く欲望を自分の内面に意識するようになる。その強い欲望――妄執とも言うべきものを見つめ続け、そしてそれは排するのではなく、認め受け入れる。「悟り」というものがあるとすれば、あるいはそれか。
「鉄鼠」とは恨みを持った僧侶・頼豪が無数の鼠に変化したものでライバル関係にあった延暦寺を襲い経典をかじったと言う。しかし本作の「鉄鼠」は坊主の妖怪であるということよりも、それが成立する歴史的背景の方に意味がある。罪悪感を打ち消すために、相手を悪者に――妖怪にしたて自分のほうをこそ被害者にしたてる。――その仕組みを象徴するものこそ「鉄鼠」。それは自分の中で生み出された自分の中にしかない幻の妖怪。つまり「疑心暗鬼」だ。自分を縛っているのは自分自身のやましさでしかない。本作の登場人物の迷いは常に自分の内側にある。自分の内面を見て怯えている。だが常にその原因をいつのまにか外側の要因に転嫁して、幻の妖怪を作りあげて怯える。その妖怪は決して消えない。なぜなら目を向けている外側にはないもなくそれは自分の内側にあるからだ。――それが結界。それが魔境であり、それが鉄鼠。そして檻である。
禅で云う神秘体験とは神秘体験を凌駕した日常のことを指すのだ。つまり、数ある宗教の形の中で、ほとんど唯一、
生き乍にして脳の呪縛から解き放たれようとする法が禅なのだ――京極堂