★ネタバレ感想★
木曜の男―ある悪夢―
THE MAN WHO WAS THURSDAY
G・K・チェスタトン
<あらすじ>
幹部が七曜を名乗っている無政府主義者の会議に「木曜日」と名乗って潜入した刑事サイム。その会議を取り仕切る恐るべき「日曜日」の正体とは?
<感想>
一読してまず感じたのは、この作品は、キリスト教的な寓意に満ちているのではということ。そういう視点から「日曜日」の正体を考えてみると、無政府主義者の議長と警察の局長が同一人物だったというミステリイ的なオチとは別の、彼が何を暗示しているのかが見えてくると思う。
この小説は、全てが見た目通りではないという構図で出来ている。秩序を重んじる詩人サイムがそれを守るために刑事となり、偽って無政府主義者のフリをして彼らを追う。しかし彼が憎んだ無政府主義者たちは、ことごとく彼と同じ刑事だった。無政府主義者を追っているはずが、いつの間にか無政府主義者に追われている――と思い込んでいたのに、彼らこそ無政府主義者だと思われていた。――気がつけば、自分の信じていたものが覆っている。視点が変われば、立場が変われば、世界が変われば、全てが正反対にすらなってしまう。この世の主義主張など、不確かで幻でしかないと、いやでも気づかされる構図だ。
それが何を示しているのか? それは、人はさまざまな理由で争い続けているが、実は違いなどない――同じただの「人で」しかないということだ。
刑事と無政府主義者――正反対の存在に見えても、実は信じているものが違うだけで、同じように自分だけ苦悩を抱えていると信じ、そうでないと思い込んでいる相手を憎んでいるという点では等しい。――しかし苦しんでいない人などいない、とは誰も気づかない。物語では、それに気づいた時、初めて立場や信じるものが違ってもお互いを認めることができ、苦しみは消えたのだった。
なぜなら、彼らが信じていたものすら、実は「同じ」だったのだから。
日曜日というのは、7日間で世界を創造した神の休息の日であり、十字架に架けられたキリストが復活した日だそうだ。「日曜日」――警察の局長と無政府主義者の議長。善と悪が同一となって存在しうるもの、つまりそんな人の世の概念を超越している存在。
「日曜日」とは、「神」の寓意なのだろう。
――主人公サイムが日曜日に「あなたは苦しんだことがあるのですか」と叫んだあと、最後に聞く「私の飲む杯からお前も飲むことが出来るのか」というセリフ――これはキリストが彼と同じ祝福を望んだ弟子に言ったセリフだそうだ。サイムたち人の子に、主であるキリストの行く末と同じ苦難の道を歩めるのか? という問いであり、人はそれぞれ自分たちの飲み干す杯があるという否定なのだろう。
「最後の晩餐」があったのは木曜日だったそうである。――考えてみれば、裏切り者がいると指摘された最後の晩餐は、キリストの弟子たち、つまり人の子にとっては、ある意味、最大の悪夢だ。
「私は日曜の日だ」と相手は動かずに答えた。「私は神の平和なのだ」