★ネタバレ感想★
月に繭 地には果実
from called "∀"Gundam福井晴敏
<あらすじ>
かつて地球を壊滅寸前にまで追いやった人類。一部のものは月に逃れて地球の再生を待ち、地球に残った人々は、科学技術と共におぞましい滅亡の記憶を封印した……。それから二千年の時を経て、月の民――ムーンレイスは地球帰還作戦を発動。それが月と地球の間に深刻な戦争を引き起こす。作戦に先駆けて地球に送り込まれていた少年・ロランは地球人としての生活に安息を覚えていたが、帰還作戦によって目覚めた地球に封印されていたモビルスーツ「∀」を手に入れたことで、月の民と戦わなくては行けないことになる。
<感想>
TVアニメーションの『∀ガンダム』のノベライズ。アニメ版は大好きな作品だ
アニメ版と比べて後半の展開が大きく異なるが、大きく違う点はアニメ版では比較的牧歌的な戦争をしていたのに対して、福井小説版の方は奇麗ごとではすまさず、戦争の悲惨さが描かれていることだろう。アニメ版では偶発的に使用されてしまった核爆弾も福井版では意図的に用いられ、それどころか毒ガスや細菌兵器まで使いもっと恐ろしい兵器によって大地を焼き尽くす。人々は他集団への恐怖から弾圧し始め家を焼き討ちし始める。――戦争といってもアニメ版では牧歌的な土地争いに近かった紛争が、なぜここまで行きついてしまうのか?――それは福井小説版の戦争が人の怒りや傲慢なエゴのぶつかり合いがもたらす醜さ引き起こした戦争だったからだ。
もちろんアニメ版にもその要素があるが、基本的には良い子なので行きつく所までは行かず、人のエゴが剥き出しとまではならなかったのがアニメ版である。しかし福井小説版は違う。福井小説版での人々は、感情の赴くまま、激しく他者を攻撃する。グエンは祖父に女にされていたことから自分が男であることを証明する為に無理に前進しようとし、世界を滅ぼすほどの科学を人の叡智が導くと嘯く。ディアナも女王として人であることを捨てて無限に生き続け無ければならなかった故に、ただの人としての生と死を願い、その個人的な願望を人類の願望へと転化し急ぎすぎた帰還を果たそうとする。そしてキエル――彼女が一番アニメ版と違う――は同じ顔を持つディアナの眩しさに抱いていた尊敬の念すら抱いていたはずなのに一人の男をめぐる感情の行き違いからディアナを憎悪するようになり、ディアナを相克し貶めるそれの為だけに世界を滅ぼせと叫ぶ。――もちろん少数の人の感情の渦だけが紛争の原因ではない。誰の心の中にだって争いを生む醜い感情はある。昨日まで仲良く暮らしてきた人々をムーンレイスというだけで迫害しようとした地球人たちのように。
――これが人の、そして人類が持つ逃れられない業というものだろうか。争いこそが人を進化させたと言う者までいる。人類は争わずにいられない種族なのだろうか。しかしそんな争いを生むエゴを持った人の中に、平和を愛し、死を悲しみ、希望を信じる心もある。相反するさまざまな寛嬢の中で揺れ動くのが人である。
――ただ言えることは、争いにどんな理由が有ろうが、それで得られるものと比して失うものが多すぎるということである。人のエゴという曖昧なものがもたらす戦争、多くの人々にとってほとんど実体のないはずなの争いの中で、この喪失だけが確かなものだろう。――自らの傲慢なエゴゆえに、ディアナも、ハリーも、グエンも死んだ。その他の多くの人々に死に大地は焼き払われた。へこんだメリーは元には戻らない。―― 一度失ったものはもう取り返しが付かない。戦争こそが発達した文明をもたらすと嘯くものもいるがそれはウソ。兵器に転じられる技術なら国がいくらでも金を出すからというだけだ。平和な時に同じだけの金を出せば誰も死なずに同じ技術が手に入れられるのだから。――戦争がもたらすのは多くの喪失だけだ。それゆえに多くの喪失を生む戦争は否定されなくてはいけない。――しかしそれが分かっていても争うことを止められないのが、人である。
その他で作中で注目すべき所は、やはりディアナとグエンの対立だろうか。アニメ版では闘争本能の権化と化したギンガナムと大切なものを守る為に戦うロランとの対立が最後にはクローズアップされてしまったが、基本的には同じである。この二人の対立こそが、この物語で起こる争いの根幹にある対立だ。――それは詰まり、人類はその永遠の繁栄を求めてそのために他が犠牲になろうとも進みつづけるべきなのか、それとも人間も自然の一部である事を自覚し、過度の文明は持たず自然のサイクルに従い生き死んでいくべきなのか、という対立である。……実は、二人が主張することは己の欲求の発露でしかなかったわけだが、しかしこの人類に対して突きつけられた問題は用意には答えることが出来ない難問だ。
――個人的にはグエンの言うことは良く分かるのだ。人は単体では弱い。それを補う為に人は道具を持ち、それを進化させることで、繁栄してきた。人が生き続ける為にはそれが必要だったのが、そのことが人を他の生物とは隔絶した存在へとして、だからこそ人の繁栄があった。逆説的かもしれないが、人は進化する為に生まれてきたとも言えるのではないか。――しかしその進化により繁栄するのは人類のみで、それ以外のものを絶えず消費してきたのもまた事実である。人類の繁栄はそれ以外の多くのものの犠牲の上にある。そのことに気づいていながら人類は歩みを止めることができない。人類の道具――文明は進歩してきたが、それを用いる人の精神は実はそれほど進化していないのかもしれな。子供に刃物を持たせてはいけない道理で、人は自分たちの手に余る道具を手に入れて、それを弄びすぎた。
だから人も自然の一部であることを思い出して、自然の中に生きそして死ぬという、ディアナの言にも一理ある。進歩が進歩であった時は良い。しかし進歩の歩みはいつしか停滞し出し、それでも人類は幼いくせに肥大化させた精神で、いつしか人は生物としての人であることを超えて自己の無限を信じるようになった。己が神になったと錯覚した人は、自然と離れすぎた。肥大化した技術をもてあそび、自分が立つ大地をも切り崩す。進んだ文化が人と人の間のつながりも希薄にする。他者が存在しなければ、己を確立することも出来ずひとりひとりの存在意義も失われた。――そこにあるのは同じ物が無数に増殖していく世界だ。ウィルスのようにただ増殖するだけの生命。そこの命の輝きがあるだろうか。ただ存続し、増殖するだけの生命に生きていく価値があるか。人が人から離れてまで人類は存続する価値が有るのか?
「∀(ターンA)」には、「初めからやり直す」という意味がある。この『∀』の物語は一度行き付いた文明を持ちながらそれによって滅びた人々が、もう一度初めからやり直す物語である。なぜ「A」が逆さまの「∀」となっているのか。 ――それは初めに戻るとしても、かつての「A」とは違う「A」であってほしいという願いが込められているからだと思うのだ。――人類は進歩できる。歩みは鈍く過ちを繰り返すかもしれないが、それでも少しずつ変わっていく――そのはずであるという。しかしもしかしたら作品の語られたように、人も歴史も、「A」と「∀」の間を空を舞う木の葉のように行き気いして遂には地の落ちて朽ちるだけの存在なのかもしれない。しかし少なくとも、終章でのキエルやフラン、キースたちの生活には輝きがあった。絶望に追いやられながら、そこから立ち上がり生きていく人々の生命には輝きがあった。――人々は間違い、そのために多くの人たちが死んだ。失われたもの、変わってしまったもの、それは取り返しのつかないことだ。しかしそれでも人々は歩みを止めるべきではないと思う。進み、そのつど取り返しのつかない間違いを犯しても、少しづつ人は進みつづけるべきだ。間違っても進みつづけることで、いつしか人はその道具にあった精神を手に入れることができるかもしれない。――ただ巡リ続けるだけの生から少しは違う生へ。すくなくとも進むべき道がある限り人は忌まないはずだ。人は生まれ育ち新たな種子を育んで死んでいく。それを繰り返す。しかし残された種子から生まれてくる人は親とは違うはずだ。こうやって人は少し死と再生を繰り返しながら少しずつ形を変えて登っていくのだろう。「A」ではない「∀」へ。――そしてそこにこそ人の輝きがあるのだと思う。
月か地球へ降り立った少年・ロランは過酷な旅の果てに再び同じ地へと辿りついた。ロランはそこで最初の時と同じように河に金魚のメリーを浮かべてみる。――同じ場所での同じシチュエーション。はじめと最後が繋がる。――傍観者としてただ巡るだけの絶望の旅。――しかしそれはかつてとは違う何かなのだ。
――初めて出会った場所で再びロランと出会ったソシエの笑顔には何にも変えがたい煌きがあったではないか。
「生きている間くらい、笑ってなさいよ」
――ソシエ・ハイム