1999年12月1日、「ハリー・ポッターと賢者の石」が発売された。
それまではその名の通りひっそりしていた静山社の電話が鳴りっぱなしになった。注文受けは、2人のアルバイトも入れて4人。初めは電話で受けて、手書きで注文を取っていたが間に合わず、すべてファクスに切り替えた。電話も3台、ファクスも2台に増設した。
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| ハリー・ポッターは大ヒットしたが、静山社は相変わらず社員4人の小さな出版社だ(東京・新宿区で)
| 静山社の正社員第1号、木村康子が回想する当時の状況はこうだ。
電話が鳴る。「注文はファクスでお願いします」。ガチャン。また電話が鳴る――。同じことの繰り返しに気持ちが悪くなってきて、30分交代で当たった。
松岡佑子の予想通りの「大当たり」。この年の夏ごろから、アメリカでベストセラーを続けるようになり、そのニュースが国内にも伝えられるようになっていた。読者は、日本語版が出るのを心待ちにしていたのだ。
注文殺到の陰にはこんな裏話があった。翻訳の校正も手伝った、夫幸雄の古い友人でシンガー・ソングライターの湯浅とんぼ(62)は、職場近くの書店を回り、10冊、20冊と買って歩いた。下訳の宇尾史子も、目黒区内の自宅近くの書店で平積みされているのを見てうれしくなり、10冊まとめ買いした。図書館に行って、購入希望カードも書いた。
木村は、山手線の車内で“広告塔”になった。表紙を他の乗客に見えるように読むふりをするのだ。
松岡は、初版が出る前に増刷の注文を出した。普通は発売直後の週末の売れ行きを見て判断する。これも業界の常識破り。「年末で印刷会社が混雑する」というのが理由だった。
しかも、販売のプロの豊田哲が3千というと、松岡は5千、5千といえば1万という。「強気、強気」「行け、行け」だった。
ところで、本の奥付の発行日は12月8日になっている。豊田が大安の8日にこだわったためだ。もうひとつこだわった初版の2万7000部も、「実は、『2』『7』のカブで縁起がいいと思ったからなんです」。松岡が主張した3万部も「数字に弱いので、計算しやすくしたかったため」と本人はいうが、真偽のほどはわからない。
資金がなくて広告が出せない代わりに、新聞やテレビから取材が相次ぎ、その穴を埋めた。
1か月の販売部数は25万部に達した。
夫が亡くなってから2年、版権が取れて1人で乾杯してから1年、松岡を乗せた「ハリポタ丸」は、ようやく満帆に風を受けて快走を始めた。(敬称略)
(2002年8月8日)
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