◇テクノロジー:日常的・一般的な説明としては、「テクノロジー」を「機械」と同義とする用語法もあるが、社会学用語としては、「機械」を使った作業だけでなく、「手仕事」(→たいていの場合「手」だけではなく「道具」も使う)を含む、あらゆるかたちの「生産技術」を意味する。さらにこの言葉は「労働と雇用の社会学」においては、「生産の物的な組織」、つまり、「生産のためのハードウェアが仕事場に配置される仕方」(→物と物との関係)を含み、したがって「分業」および(「生産技術」の中に埋め込まれ、この「生産技術」が効果的・能率的に作動するのに必要とされる)「労働の組織」(→人と人との関係)をも含んでいる。生産諸技術と(物的・人的な)生産組織は「社会的」な産物であり、人間の意志決定の結果であり、したがってテクノロジーは社会諸過程の所産として分析することができる。

 

・あらゆるかたちの「生産技術」(手・身体器官→道具→機械)

・「生産の物的な組織」「ハードウェアが仕事場に配置される仕方」(→物と物との関係・システム)

・「生産の人的な組織」:「分業」および「労働の組織」(→人と人との関係・システム)

 

人間関係論[ひ1] 」の伝統に属する社会学者たちは、テクノロジーと、労働者の「モラル」(士気)および「疎外」との関係、とりわけ@労働者と機械との間の直接的な相互作用、および、Aテクノロジーがワークグループ(労働現場の小集団)に及ぼす影響に焦点を当て、@Aの両方ともが、労働者の士気にある一定の限定的な影響を与えることを示した。のちに、「社会階級および階級関係の一側面としてのテクノロジー」に注意が向けられるようになった。マルクス主義の「労働過程論的アプローチ」は、テクノロジーを社会階級間の諸関係のひとつの現れとして処理した。そして、労働者を支配し制御する新たな生産諸技術は、資本主義社会における被雇用者(労働)と経営者(資本)との間の、固有の利害対立から生ずる諸結果を緩和するために開発されたものだと主張した。ウエーバー学派の階層(階級)理論のいくつかは、「労働の状況(労働の場における立場)」が階層(階級)上の地位を決定する一基準であり、テクノロジーは「労働の状況」を決定するための主要な原因であると考えた。

 

以下の項目を参照すること:疎外、自動化、非熟練化、フレキシブルな専門化、フォーディズム、労働過程、ポスト・フォーディズム、科学的管理法、社会・技術システム。(ペンギン)

 

◇技術決定論:これはたとえば蒸気機関の発明のような、生産技術の諸変化によって、社会の変化が生まれるという考えである(「技術→社会」という因果関係)。したがって、この考えによれば、産業革命はこのような(新しい)諸技術の束(=集合体)にすぎない、ということになってしまう。ほとんどの社会学者は、こういった説明が誤解を招くものだと考えている。というのは、この考え方は、技術の発明がなされ、技術が応用されるために必要な社会の変化(「社会→技術」という因果関係)を無視しているからである。技術決定論の考え方はまた、労働の分析にも適用された。かつて産業社会学者たちは、以下のように主張するのが普通であった。すなわち、生産技術が、それ以外の諸現象(たとえば、仕事に対する満足感、仕事場の社会組織、仕事に対する闘志(やる気)といった諸現象)を決定する、と。しかし今では、こういった考え方はインチキ臭いとされている。

 

以下の項目を参照:産業社会、マルクス、社会・技術システム。(ペンギン)

 

◆テクノロジー:社会学ではどちらかと言えばやや漠然と、機械、道具や設備、および、(おそらくは)それらと結びついた生産技術を指すか、または、労働の技術組織および機械化に規定された社会関係のタイプを指す。以下省略。(オクスフォード)

 

◆テクノロジー社会(科学技術社会):一部の著者は以下のように主張している。テクノロジー(科学技術)とテクノクラシー(科学技術の専門家による支配)がますます(社会)諸制度と(社会)変化の本質を決定づけるようになった、独特な社会のタイプがあって、このタイプの社会はたいていのばあい、産業主義(インダストリアリズム)のさまざまな形態と共に出現した。楽観的な立場としては、多くの「技術主義」やいわゆる「収斂理論」の立場(「産業社会」の項を参照)が含まれ、これは、1950年代および1960年代初期の、多くのアメリカの機能主義者たちによって支持された。初期の、より悲観的な説明は、Jacques EllulThe Technological Societyという本の中でしている。労働社会学の伝統においては、テクノロジーは「疎外」の一形態、および、「人工物による支配」として扱われている。オールターナティブな技術、エコロジー、環境に対する、ますます増大しつつある人びとの関心は、(このようなテクノロジー社会に対する)一つの反動であって、20世紀末の産業主義に対する(労働社会学と)類似した解釈から生まれたものだと考えることもできる。(オクスフォード)

 

◆技術決定論:社会変化の理論、特徴的には、進化論的な進歩または発展の理論であり、生産技術がそれ自身の論理ないしは法則に従って進歩・発展するという考え方である。また、その過程のなかでは、生産技術が(社会)諸制度と社会的な諸関係の主たる決定要因として働くと考える。文字どおりの技術決定論は明らかに正しくないから、このような理論の大半は、技術の導入とその社会的な影響が現れるまでの文化的な(文化によってさまざまな)タイムラグを持ち出してくる。技術決定論を史的唯物論と混同したり、等値したりしてはならない。文化的唯物論(CULTURAL MATERIALISM)の項を参照。(オクスフォード)

 

◆技術主義:テクノクラシーが望ましいものであり、またそれが不可避なものであるという信念。さらにまた、技術主義は幅広い社会運動でもあって、特に、アメリカ合衆国で、20世紀の初頭に影響力があった(テクノクラシー運動)。これは、産業による統治と科学的ないしは工学的な諸原理にもとづく社会を支持し、価格システムの廃絶を求める運動であった。テクノクラシーの項を参照。(オクスフォード)

 

◆テクノクラシー:技術専門家からなる、あるいは技術専門家から抜擢された革命的ないしは支配的なエリートのこと。ブルジョワジーの項を参照。(オクスフォード)

 

※テクネー:(ギリシア語で技能または技術の意味)物事をおこない、あるいは、物をつくる、方法・やり方にかんする知識(オクスフォード哲学辞典)

 

 

 

●参考:機械の反民主主義性(要旨)

 

機械を考えるのに「民主主義」を基準にするのはお門違いだと言われるかもしれない。いわく、機械は機械にふさわしい基準で判断すべきだ。設計通りの仕事がやれる能力があって、騒音や公害などの好ましくない副作用はできるだけ少なく、効率よく、「最小限の努力」で仕事がこなせればよい。なぜ、機械が「民主的」である必要があるというのか。そんな要求に意味があるのか。

 

いわく、機械が「反民主主義的」だという批判がありうるとして、そんな批判をしても無駄ではないだろうか。機械には一種の必然性がある。機械は、必然的な論理に従って、技術的知識の進歩に伴い、どんどん変わっていくし改良される(→技術決定論)。電気の秘密が発見されれば、すぐに電気ヒーター、電気モーター、電灯、電話、テレビ、コンピュータ、電気椅子が登場した。これが「政治的民主主義」にどんな関係があるというのか。

 

――こういった見方そのものが問題の一部なのである。あるものがわれわれの共同の生活の秩序を大きく左右し、それを受け入れる以外の選択の余地が実際にはあるにもかかわらず、選択の余地がないと教えられれば、それは民主主義の問題である。言い換えれば、機械は絶対に政治的基準で判断されたり、選択されたりすべきではないという教義そのものが、民主主義に反している

 

(注)「政策決定の是非に対する終極的な判定権というものが人民にあるという、人民主権の思想――つまりアリストテレスが「家が住みいいかどうかを判断するのは建築技師ではなくて、その家に住む人間である」という比喩で、デモクラシーを基礎づけておりますが、政策決定によってもっとも影響を受けるものが政策の是非を最終的に判定すべきであるという考え方というものは、まさに戦争防止のために政府の権力を人民がコントロールすることのなかにこそ生かされなければならない」(丸山真男「憲法第九条をめぐる若干の考察」)

 

いまある機械の形は、ほんとうに百パーセント科学的・技術的な必然性によって決められているのだろうか。「効率」は、果たしてあらゆる状況の下で同じように働く機械的作用の普遍的原則なのだろうか。

 

――効率というのは、どのような結果を望むかによって変わるという単純な真理を、われわれはとかく忘れがちである。手段と目的・結果とがはっきり分けられる場合には、「最小限の努力」(コスト・パフォーマンス)という原則が適用できる。だが、音楽を演奏したり、愛し合ったり、ダンスをしたり、物語を語ったり、森を散歩したりといった、手段と目的・結果が分かちがたく結びついている場合には、「最小限の努力」という原則はあてはまらない。運動をしたり、友達と楽しく食事をしたりしている時に、できるだけ短時間ですますのは決して「効率的・効果的」ではない。こうした活動は、それにふさわしいだけの時間をかけ、努力してこそ、最大の結果が得られるのだ。

 

状況はさらに込み入っている。「施錠」を例にとって考えてみよう。錠は盗みをあらかじめ仮定しており、盗みは私有財産だけでなく他人の私有財産を無断で取れば利益が得られるという状況をあらかじめ仮定している。小さな町で誰も玄関に鍵などかけない地域があることは誰もが知っている。みんなが正直者ばかりだから信用しているのだとは限らない。状況にもよるのだ。同じ小さな村に住んでいるとして、私があなたの帽子を盗んだとしても、村の中でそれをかぶっていくところなどないではないか。一緒にキャンプ旅行をして、料理も一緒にやっている時に、私がフライパンを盗んで何の利益を得られるだろうか。

 

「施錠」(という特定の技術)は普遍的な必要性ではない。一定の政治的、社会的、法的な条件があってこそ有用なのである(社会→技術という因果関係)。過去にも現在にも、鍵を必要としていない社会はあるし、鍵がその機能を失い、しだいに姿を消してしまうような、そういった社会の変化を、われわれは少なくとも想像することはできる。


(注)
「施錠」を「監視カメラ」や「テレスクリーン」(オーウェル)に置き換えてみると、リアリティがいっそう増すのではないだろうか。
 

どこにいようと鍵は必要だとわれわれに思いこませようとする人たちは、実際には最初から鍵は有用であると仮定する政治的、経済的、法律的条件それ自体が普遍的であり、不変であると信じ込ませようとしているのである。もっとも明白な例がホッブズで、彼は人間の自然状態は各人の各人に対する戦争状態だと、ぞっとするような説明をしたすぐあとで、それを疑う人たちに当てこすりを言って納得させようとしている。「それではかれ(信じない者)に、かれ自身についてつぎのことを考察させよう。・・・かれが扉に鍵をかけるときには、かれの同胞市民について、かれが金庫に鍵をかけるときには、かれの子どもたちや召使いたちについて、かれがどういう意見をもっているのか、ということである。かれはそのばあいに、かれの諸行為によって、私がコトバによってするのと同じく、人類を非難しているのではないだろうか」。ホッブズは、鍵という形に具象化・物象化した政治的な意味を十分理解していた。われわれが鍵を受け入れれば、所有的個人主義を受け入れることになり、またリヴァイアサンを受け入れることになる。

 

(注):Let him therefore consider with himself, when taking a journey, he arms himself, and seeks to go well accompanied; when going to sleep, he locks his doors; when even in his house he locks his chests; and this when he knows there be Laws, and public Officers, armed, to revenge all injuries shall be done him; what opinion he has of his fellow subjects, when he rides armed; of his fellow Citizens, when he locks his doors; and of his children, and servants, when he locks his chests. Does he not there as much accuse mankind by his actions, as I do by my words?

 

鍵と同じように、産業生産の機械のほとんどが人間の意図の具象化・物象化である。月並みな言い方だが、産業革命は生産のハードウェアの改革にとどまらなかった。労働の組織の革命でもあった。この革命は単に新しい機械が新しい形の労働を必要としたという意味だけではない。新しい機械は労働を再編するとともに、労働者の抵抗力を奪うという意図に沿ってつくられた。私が言うのは分業のことではない。分業は産業革命よりもはるか以前に達成されたし、労働者が力を獲得する源であったからだ。

 

産業革命で労働が再編された結果、生産性と「能率」が増したという点は疑う余地がない。ただし、労働するコミュニティがつくりだすあらゆる価値のなかで計算に入れられるのは製品の量と「交換価値」だけ、と認めた場合の話だ。19世紀の資本主義批判者が「利潤追求」をやり玉にあげたとき、そのポイントは、金銭だけが価値の尺度となってしまい、労働するコミュニティが生み出すそれ以外の価値は、そのすべてが軽んじられ犠牲にされる、という点にあった。

 

マルクスは工業生産の機械に埋め込まれた「政治」を認識し、それを的確に描いている。工場では「運動の出発点をなす中心機械を、単に自動装置としてのみではなく、専制君主として表現することを好む」と彼は言う。「労働者が労働手段の画一的な運動の支配下に屈してしまえば、そこには兵営的な規律が生じ、・・・労働者を肉体労働者と監督者に分断し、産業軍隊の兵卒と下士官とにはっきり分けることになる」(『資本論』)。

 

機械それ自体が抑圧的なのか、それとも使い方が間違っているだけなのだろうか。力織機や精油所、組み立てラインを根本的に異なった方法で使う、などということは考えにくい。「技術は目的次第で良くも悪くも使える」という古い格言は、技術がはっきりとそれ自体の目的を組み込んでいるところではあまり説得力がない。たぶん、科学や技術の知識はさまざまな目的に利用されうるのだが、現実の機械の設計は資本主義の下でおこなわれ、科学の知識は「搾取」という意図と混合してしまったのだ、と割り切って、この難問をかわせるかもしれない。科学は普遍的かつ中立的と言われるかもしれないが、生産のハードウェアは科学と労働者から最大限の剰余価値を絞り出そうとする意志が具象化した混合物なのである。工場を刑務所になぞらえたシャルル・フーリエのたとえが、ここでは役に立つ。錠前からのぞき窓のついた鋼鉄のドア、監視塔、独房、処刑室とそろった刑務所は、人々を意志に反して閉じこめるという意図を建築学的に組み込んでいる。もちろん、建物自体は改装すれば、劇場にも美術館にも転換できるが、かなり根本的な改修工事が必要だろう。

 

 

私の知る限り、「搾取的意図が取り除かれた社会」では、機械そのものがもっと別の発達をたどるかもしれないという可能性をとことんまで考えた社会主義者として、ウィリアム・モリスがいる。モリスは労働について理論を書いただけでなく、実際労働したという点で労働理論家として希有な存在である。彼は絵画、印刷、織物、木彫り、製本など、多彩な分野における本物の名人であり、料理の腕も優れていたと言われる。この経験に基づいて、モリスは仕事とは何か、資本主義の下でどこがうまくいかなかったのかについて、力強く、しかも奥の深い理論を生み出すことができた。この理論の中心は、仕事とは楽しみになりうるし、そうでなければならないというモリスの持論だ。この主張はこじつけのユートピア主義的推測といったものではなく、自分の日常生活で知っていることなのである。正しい道具と材料をつかって、適当な速さで、自由な雰囲気の中でモノを作るのは、人間にとって大きな喜びのひとつだ。モリスにとって、仕事の楽しみは仕事の目的の一部だった。この立場からすると、工場生産の手段と目的の「効率」は、重要な目的を達成するのが効率だとすれば、決して効率的ではない。モノをつくること、それも見事に作ることは、地球上に住む人間にとって大きな幸せをもたらす。みじめでろくな技能もない労働者が世話をする工場でもっとたくさん作るほうがいいと言うのは、肝心のところを見損なっているにすぎない。


(注)William Morris (1834-96) 《英国の詩人・美術工芸家・社会運動家》

 

さらに重要な点は、面白い仕事は機械ではなく手でやるという。ここでモリスが考えているのは、誰も彼もが「趣味」をもつという意味ではなく、基本的生産労働の主要な部分は手仕事になるだろうという意味である。各労働者は機械と手仕事を交互にやりながら、創造的労働の喜びを知るとともに、芸術家となる機会を手にするのである。

 

エドワード・ペラミーの小説『顧みれば』を読み、産業の軍基地として描かれた社会主義社会に恐れを抱いたモリスは、自らユートピア小説『ユートピア便り』(1890)を書いた。この小説では機械はほとんど全面的に姿を消してしまうのだが、それはあたかもモリスが『資本論』に書かれた「機械は剰余価値を生産するための手段である」というマルクスのきっぱりした発言を真に受けて、この洞察を極端な結論に結びつけたかのようだ。機械の目的が剰余価値を引き出すことにあるとしたら、搾取が撤廃され、問題は使用価値だけとなった社会では、機械は完全に衰退するはずではなかろうか。小説の主人公ゲストは19世紀に眠りに落ち、21世紀に目覚めるのだが、そこで発見するのはテクノトピアではなく手工芸の時代だと知ってびっくりする。機械時代はとうに過ぎ、いまでは博物館や人の記憶の中にしか残っていない。ゲストが聞いた話によると、社会主義革命ののち、「機械で働く生活に対する反感が・・・徐々に広まった。そしてついに、仕事ではないはずの楽しみを装って、つまり楽しみに他ならない仕事が機械的な骨折り仕事を追い出しはじめた。そうした機械的労働は、かつては最小限におさえられるであろうと期待していたのだが、一度たりとなくなることはないと思われた」「機械は芸術作品をうみだせないし、もっと多くの芸術作品が求められているという口実の下で、次々と機械が密かにうち捨てられていった」。本質的に退屈な骨折り仕事は「著しく改善された機械」によってなされるという原則はまだ遺っているが、イギリスの田舎を旅するゲストの後について行くと、この説明にぴったりあてはまりそうなものといえば、川を渡るモーター付き艀(はしけ)ぐらいしか見あたらない。それにモリスのこの小説では、芸術的な創造だけが楽しみなのではない。人びとは川を漕いでのぼったり(モーター付き艀があるにもかからわず)、収穫することを楽しんでいる。実際、モリスはゲストを干し草の収穫に北へ向かう若者の一団と偶然出合わせて、話全体に不思議な魅力を持たせている。この干し草の収穫は毎年のお祭りのようなもので、われわれにとってのスポーツ行事のように全員が喜んで参加するのである。登場人物のひとりは干し草の収穫を「簡単だけど大変な仕事」だという。「つまり、筋肉は酷使されてかたばってしまうし、くたくたになってベッドに入る。でもそれ以外で悩むことはない。要するにいやなことなどなにもない。こういう仕事は過重にならなければいつだって楽しい。ただし、うまく刈り取るにはいささか技がいる。ぼくはかなりうまいんだ」。もちろん、刈り取りは手で大鎌をつかいこなすのである。彼らが長い間待ち望んでいた干し草の収穫場所に着く前に、ゲストが目覚めてしまうのは小説の終わり方の悲しみの一部だ(中公クラシックス「モリス」参照)。

 

マルクス主義者やマルクス・レーニン主義者の多くはモリスをロマン派の空想家、非科学的として退けた。だが、モリスの科学には間違ったところはいささかもない。彼が技術決定論者ではなかったというだけだ。モリスにとって機械や技術は、それが埋め込まれている社会に対して先立つ因果関係になっていない。むしろ、その社会の機能や価値を具体化したものであり、その社会の精神(エートス)によって特徴づけられているのである。社会の性格が異なれば、生み出される技術も異なる。自由な労働が存在する自由な社会は、自由労働の技術を選ぶはずだとモリスは考えた。つまり、いちばん力と楽しみを労働者に与える技術である。マルクス・レーニン主義者がモリスをロマン主義者として片付けるなら、マルクス・レーニン主義の経済開発主義者は核心を見損なっているとモリスに非難されるに違いない。

 

 

さて、組み立てラインについてもう一度考えてみよう。組み立てラインは仕事に管理上の秩序を与えるものとしてハードウェアに凝固されている。それは一連の命令を具体化している。この部品を取り付けろ、ここを溶接しろ、ボルトを締めろ、という具合にだ。製品にも同じように管理された仕事の秩序が組み込まれている。それは管理された労働者によって組み立てラインで作られるように設計されていて、ほかの誰にも作れない。

 

ひとつの技術を選べば、それについてくる政治、つまり仕事の秩序を選ぶことになる。大量消費を選べば、大量生産と管理された労働秩序を選ぶことになる。大工業を選べば、管理上の少数独裁と社会的不平等を選ぶことになる。管理者と労働者の関係は、軍隊の将校と下士官の関係に似ている。

 

先進国における自動車の大量生産はひとつの選択であった。おそらく人びとはそうした選択をしたことを十分自覚していなかっただろうが、その理由の一端は技術的「進歩」の恩恵と必然性が非常に強く信じられていたからであり、また自動車が文明を大きく(悪い方向に)変える力をもつだろうとは露ほども思わなかったからである。にもかかわらず、それはその当時ですら政治的選択だったのであり、例えば各国政府は、国家予算を鉄道その他の公共輸送から高速道路の建設へと移行し始めていた。

 

 

保守主義の精神が教えるところでは、数世紀にもわたって発展してきた技術、制度、伝統、やり方は、われわれが知っている以上の、また知りうる以上の知恵や有用性を内部に秘めているのであって、もしそれらを解体しはじめたりすれば、失いたくないものまで失ってしまうし、意図した以上に破壊の連鎖を引き起こす可能性が大きい。保守主義の考え方はジャコバン主義に対抗して出てきたのだが、ジャコバン主義の方は、世界を必要とあれば暴力を用いてつくり直し、抽象的理由に基づく理想のパターンに従わせることが可能だとする概念から生まれた。しかし今日の支配階級の「保守主義」は、ジャコバン主義直系の歴史的継承であり、それが保守しようとする制度は、制度化されたジャコバン主義に他ならない。支配階級の保守主義者の関心は、自分たちの権力を維持し、拡張する制度を守ることなのである。テニスンは次のような一節を残している。

 

朽ちた枝を取り払う

かの人こそ最上の保守主義者

 

だが支配階級の保守主義は、枝を救うのに根まで切り込む。彼らが保持しようとする経済体制は、世界史上のいかなる勢力にも増して多くの伝統的技法、習慣、制度を根絶してきたのである。この種の技術的、経済的ジャコバン主義に「保守主義」の名をつけるのは、露天堀りの鉱夫を露天堀りという制度を保護しようとしているという理由で「自然保護論者」と呼ぶようなものである。

 

近年のエコロジー運動は、保守主義精神にとってかっこうの分野を見出した。ここでは古典的な保守主義の主張が正しい。アマゾンのジャングルをパルプ用に伐採しても、少しばかり余計に放射能がもれても、あるいは食品添加物をもう一種類増やしても、ほとんど害はないことは科学的に保証されていると企業家(と専門家)が言えば、「あなたがいう科学はそれほど多くのことを分かりえない」と答えるのは、無知蒙昧主義ではなく、保守主義の英知である。

 

政治的には、ここで重要なエコロジーは未開の地の環境保護(それはそれで別の重要性をもつ)というよりもむしろ、自然と生産労働にたずさわる人びととの間の、何世紀にもわたる対話の中で発展してきたエコロジーである。農民と土地や季節の間で、大工と道具・木材の間で、陶工と陶土・火の間で、漁民と海・天候の間で行われてきた対話である。こうした対話は、支配階級(と専門家)が直接参加することはほとんどなく、知るところも少ない。これらの対話の所産は、人民の文化であり、生産労働の文化であって、その多くが新石器時代までさかのぼれる、人類の最古の伝統を伝えており、これに比べればバークが守ろうとした伝統や遺産などは新流行の改良でしかない。このエコロジーこそ、つまり大国の政府の制度、大企業、巨額の財政を結びつける「ゲームのエコロジー」ではなく、人間の生活と文化と、生産の基盤となる自然との間の無限に複雑な関係性こそ、保守主義にふさわしい領域である。この領域こそ、変化は徐々に注意深くなされねばならず、しかもまさにこの領域に、支配階級の「保守主義者」たちはブルドーザー部隊を送り込んでいる。だが、このエコロジーの中にひたって生きるふつうの人々は、当然ながらこの領域を保護してきたのであり、この動機が資本主義の初期いらい人々の戦いの歴史で大きな部分を占めてきたのである。民衆は本質的に保守的だとよくいわれるがそれは真実である。本質的に民主主義的な保守主義者なのである。

 

 

学生たちと一緒にハンフォード原子力施設を訪問したとき、見学コースの一環として簡単な講義を聴いた。ガイドは原子力発電の安全性について長々と話した。廃棄物は安全に埋められるだけでなく、危険な期間が過ぎるまで厳重にモニターされます、と彼は語った。私は手をあげて質問した。「ここで作られる廃棄物の危険性は2万5千年後まで続くと言われましたが、それだけの年月、誰がモニターするのですか」

「もちろん米国政府です」

「2万5千年も続いた政府なんて、聞いたことがありますか。」

その男性は私をにらんだまま、答えようとしなかった。

 

原子力発電所の安全性をめぐる議論は、技術論であるというだけでなく、政治と歴史についての考え方を土台にした議論である。原子力発電は安全だという主張は、歴史がかつて知らなかった高度の政治的安定が前提とされている。米国をはじめ原子力発電所を建設する政府はすべて2万5千年続くだけでなく、2万5千年間は大戦争が起こらないということを前提しているのである。製造業者の側は原子力発電所がどれほど爆弾に弱いかについてほとんど語らない。

 

さらに、原子力発電の安全性の主張は歴史の理論を前提としている。核廃棄物を安全に処理するための適切な技術はまだ見つかっていないのは周知のことである。「専門家」は私たちに向かって心配しなさんな、いずれ発明されるよ、と請け合う。いかなる類の知識によってこう断言できるのだろう。これは科学に基づく知識ではない。既存の科学はそうした技術を生み出してはいない。そうした技術を生み出すだろうという主張は、科学的言明ではなく、政治的予言なのだ。それは科学が進歩するだけでなく、無限に進歩するはずだという考えに基づいている。問題は確実に解決されると言うのは、いかなる問題も科学によって解決可能だとする想定によってのみ正当化される。これは方法論として経験的証拠に根ざしているはずの専門家から出てくるものとしては不思議な言説だ。科学が将来なにをやるかについて経験的証拠を手に入れるには、待つしかない。実際、科学が確実にこの問題を解決できると言い切るのは、きわめて陳腐かつ支離滅裂な類推に基づく推測でしかない。そうさ、これまでだってたくさんの問題を解決してきたじゃないか、というわけだ。こうした逆ネジは「科学が解決できなかったこともたくさんある」という経験的な事実を無視している。

 

原子力発電は安全だとか「十分に」安全だという科学者は、自分の専門分野のワクをはみ出しているのである。こうした問題は科学者にまかせるべきだと言うことで、正当な政治的問いを強奪して、科学者階級の独占的管轄権に入れようとするのだ。要するに、政治権力を手に入れようとしているのである。ある技術が「十分に」安全かどうかは科学の問題ではなく、政治的選択であり、その選択が間違っていた場合に傷つく人びとだけが、正当になしうる選択なのである(→「当事者主権」)

 

今頃になって産業化以前の職人がいなくなったことを嘆くのは不毛だという人がいるかも知れない。産業主義がすでに定着している以上、「時計を巻き戻すことはできない」というわけだ。この古いことわざの類比の貧しさは覆うべくもない。実際には時計は巻き戻せるし、そのためのネジもついている。できないのは過去をそのまま再現することだ。事件は繰り返せないし、人びとはいなくなる。しかし、過去において人びとが知っていたことは、われわれも同じように知ることができる。クルミを金槌で割ったり、毛織物の布を身にまとったり、粘土のカップで水を飲むのは新石器時代の技術だから、われわれにはできないとでも言うのだろうか。たしかに、産業主義はわれわれを支配しているし、環境破壊に向かう融通のきかない行進にわれわれを組織化している。できるかぎり知恵を求めるのが賢明だろう。

 

それに、すでに遅すぎるというのはヨーロッパ中心主義だ。産業化が及んでいない場所などどこにもないとしても、少なくともヨーロッパやアメリカ、日本ほど飽和状態になっていない場所はまだある。ヨーロッパの産業化のみじめな歴史をそのまま機械的に後追いする代わりに、第三世界諸国はヨーロッパの体験から教訓を学び、もっとましな未来へまっすぐ進めるのではあるまいか。

 

科学や技術を手段としての価値よりも超越的価値をもつものとしてみる傾向は、時にほとんど宗教に近いものとなり、科学について科学的に議論することを困難にする。科学的未来が自明のものとして提示され、当然そこに達すると言ってみても、それ自体科学的(つまり経験的)な根拠はなにもない。科学的進歩の論理では、科学的未来とはなんであれ、「次にくる」ものを意味する。それが人やその世界にとって必然的にいいものに決まっているというのは、科学的発言ではなくむしろ科学的信仰の告白といえる。技術的に何が「次にくる」かとなれば、核によるホロコーストや、人間の一生を「すたれた」ものにしてしまう超人ロボットや、遺伝子工学のサイボーグの発明が、ほかのシナリオと同じように容易に予言できる。

 

技術は科学的に高度になるに従って価値が増すという主張は、それ自体、いかなる「科学的方法」によっても裏づけることはできないのである。人間がきちんと、快適に、しかも健康な生活を送るために本当に必要な技術の大半は、古くからあるのだと想起することは、人を解放することになる、と私は思う。糸を紡いで織った布よりロボットのほうが人間にとって重要だとか、屋根や壁や窓のある家よりコンピュータのほうが重要だとか、本気で主張したい人などいるだろうか。土を耕し、動物を飼いならし、網や銛やわなで魚を捕り、土から陶器を、砂からガラスをつくり、鉱石から金属を抽出し、火を使って調理し、楽器に合わせて歌い、踊り、想像力あふれる像を絵に描いたり染めたり、木材や石や粘土に彫り込んだりする技術、それが人間社会をつくってきたのだし、どの技術をとっても「第三の波」の技術によってすたれてしまったものはひとつもない。

 

だからといって、新しい技術はすべて無価値ないし有害だという、まったく反対の、しかも同じように機械的な議論を展開しようというのではない。なにもかもごたまぜのバッグと同様、価値のあるものもあるし、有害なものもあるが、たいていのものは「どうということはない」ものである。肝心なことは、技術の価値はそれが発達した時点によってではなく、人間や社会、自然環境におよぼす影響によって判断されるべきである、ということだ。

 

さらに、もっとも莫大な金と権力と結びついた技術が「最先端」技術だという幻想もある。「第三の波」であれ、なんであれ、われわれに提示される技術はたいてい、巨額の資金を背後にもっているし、政府や多国籍企業からの補助金に支えられた膨大な数の科学者や技術者によって開発され、世界を驚かせる技術的「見せ場(スペクタクル)」をつくり出す。見た目はさほど派手ではないが、他にもっと民主的な技術も同じように新しく、進歩しつつあるかもしれないことなど、簡単に忘れられてしまう。

 

最近読んだ中国関係の本に道を走る自転車とトラックの写真が載っていた。そこには「新旧なかよく」といったキャプションがついていた。これはこの幻想をよく表している。トラックにはモーターがついていて大きいので自転車よりも「新しい」と誰しも思っている。実際は、自転車とトラックはほぼ同じ時期に登場したのであり、自転車のほうが数年早いだけなのだ。しかも、エネルギー効率という技術的基準ではかると、地上の輸送手段として自転車にまさるものは他にはない。この効率は、いまなお改善されつつある。

 

自転車の技術はハイテクでもパワーテクでもない。一流大学の博士号を持った科学者などいなくても作れる。大規模工場でなくても製造可能である。自転車利用が増えた場合の効果を考えてみてほしい。自転車が「技術的に初期の段階」だというのは幻想である。

 

もうひとつの要素は、自転車という技術が、大学で訓練された科学者や技術エリートから力もイニシアチブも奪い取って、溶接工や機械工といった労働者の手に引き渡す類の技術だということがある。科学的、技術的エリートは、どれほど善意であろうと、自分たちの働きを必要としない技術を擁護するために時間を使う可能性は少ない。そうした意味で、自転車は民主的技術にふさわしいモデルとして役立つ。こうした控えめな技術は他にもあって、その多くがいまも改善されつつあるのだ。

 

Douglas Lummis, Radical Democracy1996)からの抜粋

 


 [ひ1]「人間関係論」は、Eメイヨー、レスリーバーガーらが行ったウェスタンエレクトリック社でのホーソン実験から始まった。この実験では工場で温度、環境、騒音などを変化させ、作業する職人たちの能率がどうかわるかを調べたのだが、どんなに劣悪な環境で働かせても、どんなに良好な環境で働かせても、あまり能率に変化がないことがわかった。これを分析した結果、工場の職人たちの「自分たちは世界的な実験、ホーソン実験に参加している」という意識が能率を高めたと考えられ、作業環境より人間の意欲、人間関係という部分が能率に大きく影響することを発見したとされている。

これにより経営管理の前提「人間とは経済合理性に基づく行動、意志決定を行うものだ」というテイラーらから始まった「経済人モデル」の考え方から、「感情によって行動、意思決定を行うものだ」との前提にたった「感情人モデル」へ移行。能率を高めるには感情へのアプローチが重要であるとされた。


メイヨー&レスリーバーガー
生産性を向上させる要因となるのは仲間との感情
労働意欲は自己の職務、仲間にいただいている感情により影響される

レスリーバーガー公式組織・非公式組織論
社内に組織する公式組織とよぶもの以外に非公式組織が社内にある事を発見

マズローの欲求5段階説
生理的欲求安全安定の欲求社会的欲求自我の欲求自己実現の欲求
下がみたされると上を満たしたくなる。欲求は無限につづく。

マクレガーのXY理論
X
理論:人間とは怠け者監督による管理
Y
理論:人間とは自発的である目標による管理
Y
理論に基づく管理の優位性を説いた

ハーズバーグの動機付け・衛生理論
人間には「自己実現欲求」と「不快回避欲求」の二つの欲求がある。これを「動機付け」と「衛生」と呼ぶ。

不快回避欲求を充足しても不満足は減少するが動機付けはできない。

主な衛生要因 (不満足の要因)経営政策、監督技術、給与、人間関係
動機付け要因 (満足の要因)達成、承認、昇進、仕事そのもの